イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのレメール小広場の幽霊

リアルト市場の大運河対岸にレメール小広場というピクチァレスクな空間があります。この広場にレメール(Remer ゴンドラの櫂を作る職人)という名のミラーノ風のバーカロが出来、何度か飲みに行ったことがあります。この広場は『異邦人たちの慰め』(イアン・マキューアン著、早川書房刊)を米人監督ポール・シュレイダーが映画化した『迷宮のヴェニス』(1990)の中でも使われていました。更にNHKのフィクション風ドキュメント、ドラマティックバス・ベネチア編『ヴァポレットの女』という番組の中で、このバーカロの中を背景に、ヴァポレットの運転手らにインタビューするシーンがありました。この広場に次のような幽霊話があるそうです。Marcello Brusegan著『ヴェネツィアの神話伝説』(Compton Editori、2007.08)から訳してみました。
レメール広場Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』[「レメール小広場はヴェネツィアでも最も特徴的でロマンティックな場所の一つである。リアルト橋の直ぐ近くに位置し、ヴェネツィアでも最も古い井桁[1200年代後半の平行六面体のヴェローナ産の赤大理石]が広場中央にあり、大運河左岸に顔を見せる[ここで左岸の呼称はサン・マルコ湾が河口を意味します。これまで私のブログは鉄道駅側を河口としていましたが、その資料は誤りでした]。そして13世紀に遡る、ヴェネツィアでも最も古い物の一つであるリオン館が姿を見せている。

広場に暫し足を止めて、大運河のシャワシャワした水の囁きを見ていれば、幸運な人ならば(あるいは人それぞれの気質だから不運な人でも)、ぞっとする(鬼気迫る)ようなシーンに遭遇するやも知れない、即ちフォースコ・ロレダーンの幽霊のことである。妻エーレナの首を手にして水面から立ち上がってくるのである。

この時たまの出現(決まった状況でだけ現れるという人がいる――それは満月で霧深い夜)は、1598年に起きた陰鬱な出来事を思い出させ、時の総督マリーノ・グリマーニ(犠牲者の叔父――1595~1605)はどのような登場人物を見たのか? それは姪のエーレナ・グリマーニとその非常に嫉妬深かった夫フォースコ・ロレダーンである。

ある夜、総督が街を散歩している時、レメール小広場の方へ走って行きながら叫んでいる一人の女の声を聞いた。彼女は剣を持った男に追い回されていた。総督グリマーニは素早くそれに介入して、二人の追跡を始め、追い付いた。そしてそれは自分の姪とその夫であることが分かった。

総督の発した質問への返答は明確で断定的なもので、フォースコ・ロレダーンは妻が自分の知りもしない男と何度も不倫を重ねており、自分が妻を糾弾するのは正しいと言った。エーレナは夫の嫉妬は見当外れも甚だしく、その嫉妬の対象は単に私の従兄弟だと言った。

状況は暫くは平静に落ち着くかと思われたが、突如、フォースコは怒りが爆発し、逆上して分別を無くし、妻に飛び掛かった。そして一撃の下に剣で妻の首を打ち落としてしまったのである。

殺人者は血に塗れ、総督の方に向き直って言った。自分に科せられるいかなる罪も罰も甘んじます、閣下、と。しかしグリマーニは言った。先ずローマの教皇猊下の元へ行きなさい、そして妻のその亡骸と刎ねた首を持参して、犯した罪の許しを乞うことだ、と。

ローマに到着するやフォースコは教皇に謁見を求めた。教皇は事の次第を聞いて、彼の接見を許さなかった。ロレダーンはすっかり打ちのめされてヴェネツィアに帰省したが、ヴェネツィアでの裁きに身を委ねる前に、自分が冷酷な罪を犯した場所に赴いた。そして大運河に身を投げ、自らの命を絶った。 

その時以来、殺人者の幽霊が出没するのだという、両手あるいは膝に妻エーレナ・グリマーニの首を抱えて。」

ヴェネツィアには幽霊話が結構あるようで、私が初めて語学校通学のために借りたアパート《旧モチェニーゴ館》には、2007.11.07日に書いたジョルダーノ・ブルーノの霊が出ると言われましたし、2011.11.12日のコンタリーニ・ダル・ザッフォ館(1、2)でもジョルジョーネに関わる幽霊話を書きました。

ところでこのレメール小広場は大運河の〝左岸″にあると書くと今まで書いてきたことと180度矛盾します。今まで準拠していた『Venice. The Grand Canal』(Daniele Resini著、Vianello刊)や『ヴェネツィア』上下(クリストファー・ヒバート著、原書房刊)等はサン・マルコ湾を上流としているため、この小広場が右岸になります。最近図書館で見付けた『ヴェネツィア 大運河』(ウンベルト・フランツォイ著、陣内秀信監修、中山悦子訳、洋泉社、1994年10月3日)はサン・マルコ湾に向かってこの小広場側を〝左岸(羅典語式de Citra―こちら側)″、税関岬側を〝右岸(de Ultra―向こう側)″としています。やはりこれが正しいと思われます。サン・マルコ湾方向が海ということ。今後はこの本に倣います。
『ヴェネツィア 大運河』しかしこの『ヴェネツィア 大運河』(洋泉社)が絶対かと言えば、例えば上記の語学校初通学時に借りたアパート、モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア館(旧モチェニーゴ館)の説明文に英国のバイロン卿が長期滞在したとあり、バイロンに関する碑文が掲載してあるのです。本の前頁、左隣のモチェニーゴ館の写真を見れば、碑はその左隣のモチェニーゴ館のファサードに貼られている物で、モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア館の物ではないと分かるのですが。バイロンがそのモチェニーゴ館に滞在した模様は2012.12.08日のモチェニーゴ館でどうぞ。著者、監修者、訳者とヴェネツィア・オーソリティという三役揃い踏みでもこういう事は発生するようです。
  1. 2015/07/09(木) 00:05:56|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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