イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: 827~880年

『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の巻末年表の827年の項には「ヴェネツィアを管轄下に含むグラードの総大司教がアクイレイア総大司教の管轄より独立」、827~880年の項には「ドージェ、ジョヴァンニ・パルテチパツィオ2世。比較的平和な時期を迎える。アドリア海北部で覇権をとる」、更に828年「聖人マルコの遺骨がヴェネツィアに到来」とあります。

『セレニッスィマの歴史』421-1099(Giovanni Distefano著、Supernova、2010.02)の827年の項には次のような記事を掲載しています。
ヴェネツィア史 421-1099「マントヴァの教会会議で、アクイレーイアの総大司教マッセンツィオは神聖ローマ帝国の陰の宰相的存在で、フランク族が古いヴェーネト地域を再統合したり、ビザンティンとランゴバルド族の間での分割騒動といったことはもうなかったのだが、アクイレーイアは自分達の支配権(司法権)を再確保して、グラードの総大司教管区の排除を要求するという主張を通すことが出来た。ラグーナの島々の宗教上の精神生活に関わることである。

教会会議はアクイレーイアの主張を全面的に認め、《グラードは権利の効力の温存を放棄した。……事実、教皇庁はグラードという都市の排除をはっきりとした形にしようとはせず、グラードの総大司教管区は依然として存続した。》(デ・ヴェルゴッティーニより)

教皇庁の決定の延期という事態の中で、総督は、アクイレーイアそして西欧世界が征服されてしまうという大危機を察知して、敏速に行動した。即ち、尊厳なる総大司教のラグーナの島々の平安を無視するということは、シャルルマーニュ(カール大帝Carlo Magno)のカロリング朝の支配を被るということ、更にはコンスタンティノープルとの海洋貿易に繋がるメリットを失うということを意味した。

直ぐに数ヶ月で、《アクイレーイア教会の伝説的創立者》福音史家マルコの遺骨がヴェネツィアに届き、その彼の遺骨を納める、彼に捧げられた教会が、ヴェネツィアの他のあらゆる教会の中で第一位にあるものとして誕生し、他に優越する。   

そしてその教会はヴェネツィア総督領の新首都の中で、古きアクイレーイア教会に繋がるシンボルとして存在することになる。」 

2008.11.02~11.22日に書いた聖マルコ伝説(1~3)で、ヴェネツィアに到来した聖マルコの遺骨について書いています。
  1. 2015/07/16(木) 00:05:30|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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