イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: 881年から

前回引用しました『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の巻末年表の〝881年から″の項に《ドージェ、ジョヴァンニ・パルテチパツィオ2世(881~887)。比較的平和な時期を迎える。アドリア海北部で覇権をとる》とあります。G.ディステーファノ著『セレニッスィマの歴史』421-1099(Supernova、2010.02)の881年の項には次のような事も書かれています。
ヴェネツィア史 421-1099「オルソ・パルテチパーツィオ1世(864-881)の共同指導者で息子のジョヴァンニ・パルテチパーツィオ2世(881-887)は第15代総督になった。人民の承認の下、兄弟のピエートロ(939-942)の前、もう一人の兄弟オルソ・ジュニアの死により、総督職に就いたのである。彼が完成させた仕事としては、マラモッコのサン・コルネーリオ・エ・チプリアーノ教会が思い出される」。[何故教会が Ss(サンティ)でないのか分かりません]

またこの年の項に次のような話も掲載されています。
「この総督オルソ・パルテチパーツィオ1世は自然死の状態で亡くなり、サン・ザッカリーア修道院に葬られた。未亡人となった総督夫人はグレゴーリオ・アンドレアーディとかいう男と再婚し、モロジーナという娘を儲けた。この娘の愛の物語から《ボーコロの伝説(Leggenda del bocolo――薔薇の蕾の伝説、ヴェ語bocolo=伊語bocciolo)が生まれた。

モロジーナは美男で優しい吟遊詩人、若いロドルフォと愛し合うようになる。彼がある宮廷のパーティでバラード(物語詩)を吟じた時に出会ったのである。しかし少女の父はその事について知りたくもなかった。そこでモロジーナはその若者に、仏王シャルルに随伴してムーア人との戦いに行くよう勧めた。そうすれば栄光を得、父の誇りも獲得することが出来る、と。

ロドルフォは出発し、意気込み激しく戦い、周りの者全てが恐れ戦き、彼を正に英雄と考えた。しかしある日、薔薇の木の傍らで傷付き、命が尽きたのだった。

死ぬ前、薔薇の蕾(ヴェ語でbocolo)を集め、自分の忠実な部下に渡し、それをモロジーナに持って行ってくれるよう託した、自分への愛を思い出して呉れるように、と。

少女は蕾を受け取っても何も言わなかった。自分の部屋に籠ると翌4月25日ベッドの上に横たわっているのが見付かった、絶命して。

この大いなる愛の記憶として、ヴェネツィアでは毎年4月25日の〝サン・マルコの祝祭(Festa di san Marco)″に全ての恋人達は自分の恋人に赤い薔薇の蕾を贈る習わしが始まった。――これ以外の伝説もある。 ……」

2011.01.22日の年中行事 4や2014.04.26日の聖マルコの祝日でサン・マルコの祝祭について触れています。
  1. 2015/07/23(木) 00:04:59|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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