イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ドルフィーン(Casa Dolfin)館

ダ・モスト館の右隣にはドルフィーン館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館について次のように述べています。
ドルフィーン館「これは15世紀のゴシック様式の、二つの建物が合体し、1600年代に上の階が増築されたものである。左の建物は前に飛び出しており、2階3階のファサードは、ファサード全体に広がった多連窓に特徴がある。

ドルフィーン家は古い銀行家の一家で、1297年の黄金文書(Libro d'oro)に含まれる、今日尚、存在する一家である。グラデニーゴ家から分離した一家で、その一家も別のグループに分かれたと思われる。

外交官や、かのジュゼッペのような有能な兵士を生み出したが、ジュゼッペはイラクリオン(Candia)戦争(1645~69、カンディアはギリシア、クレタ島の港)の時、ダーダネルス海峡(stretto dei Dardanelli)でトルコの船団に遭遇し、2艘の船で防戦した、数年後、僅かの手段しかない中で、敵軍を大混乱に陥れた、かのジローラモのようにである。

ヴェネツィアのトルコ軍との何世紀にも渡る戦いで、屡々気付かれることだが、興味深いのはその英雄的行動を最高に評価するために、兵員と武器の敵軍との不均衡を強調していることである。ラグーナの全人口は最高でも、女・子供を含めて10万人を超えなかった。

スルタンは東ヨーロッパのみならず、アジア・アフリカ人の計り知れない大きな《貯蔵庫》から人間を掻き集めることが出来て、損失がいかに大きかろうと、ひとえに戦争用に訓練された、恐るべきイェニチェリ軍団で強化された、20万という兵員をふんだんに徴兵した軍隊を常に配置させることが出来た。

船団については全地中海沿岸の人民による艦隊で組織され、ラグーナのちっぽけな都市国家のものに比べれば比較にならなかった。

ドルフィーン家は総督ジョヴァンニ(1356~61)を輩出し、マリーン・ファリエーロ事件で混乱したヴェネツィアに平和を齎した。領土を失うという犠牲はあったものの、ハンガリーとの間に平和が到来した。」
  1. 2015/08/20(木) 00:05:43|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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