イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: 900年

『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社、1996年1月25日)の巻末年表の900年の項には《ドージェ、ピエトロ・カンディアーノの治世下、サンタ・マリア・ゾベニゴからカステッロにいたる城壁を構築》とあります。G. ディステーファノ著『セレニッスィマの歴史 421-1099』(2010)は、900年の項で次のように述べています。
『図説 ヴェネツィア』ヴェネツィア史 421-1099「ハンガリー人(Ungari o Ungheri)、以前はフン族(Unni)とも呼ばれた遊牧民(ステップ地域から到来した蛮族)、ローマ街道から他の蛮族のように容易に東アルプス(Alpi Giulie)からヴェーネトへ侵入した。イタリア王ベレンガーリオの軍隊を破り(899年)、全パダーナ平原の大破壊と全殺戮を繰り返し、出遇う街ごとに略奪し、焼き払いながらラグーナに向かって道を切り開いていった。

その間、町の政治の中心を守護するために、あらゆる攻撃、ハンガリーの侵入を阻止する自衛のために、急遽《カステッロ運河からサンタ・マリーア・ジュベーニコまでの防塁……と……同じ防塁の片方の端からサン・グレゴーリオ修道院の対岸まで太い鉄の鎖で大運河をバリケード封鎖した》[Temanza26より]。この太い鎖は、夜の内に招かれざる客を封鎖し、総督を安眠させるため、大運河の対岸から張られたのだった。

あの《Rio di Castello(カステッロ運河)》の事を文字通り捉えて、サン・ピエートロ・ディ・カステッロからサンタ・マリーア・ゾベニーゴまで狭間胸壁のある防壁の存在を人に教える者が多数いるかも知れないので、ここは監視されねばならないのである。

『Venezia romanica(ロマネスクのヴェネツィア)』の中で、ヴラディミーロ・ドリーゴも示唆しているように、そこで述べられている事は多分正確ではない。何故なら防壁は《Rio di Castello》という運河が、リアルトという狭い範囲、将来町の政治的中心となる地域だけを取り囲む《Rio della Paglia(パーリア(藁)運河)》[ここに溜息の橋が1603年に作られた]として理解され、正に総督の城塞が区切るように取り囲んでいた。

ここで語られている事の、更なる確証を得るためには、テマンツァがコピーした(1781年)ペオリーノの有名で、正確な地図(1346年)を一目見れば、充分である。取り囲まれているのは、政治的要塞のみである。」

当時は総督宮殿は城塞だったようで、運河名等も現在とは異なるようです。
  1. 2015/09/03(木) 00:05:14|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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