イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの広場: レメール小広場ほか建物

ドルフィーン館右隣はボッラーニ・エーリッツォ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は簡単に次のように紹介しています。
レメール小広場の「サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河と大運河との合流点に位置し、少々古い建物を改築したものである。狭いファサードは柱の間の広いアーチになった三連窓が、2階、3階の中心を占めている。一方、入口の大玄関は中心を外れて右に置かれ、より近年になって最上階が追加された。

ここに総督アンドレーア・グリッティ(1523-39)が住んだが、有名な文学者ピエートロ・アレティーノ(1492-1556)がダンドロ館に移る前に住み、彼の辛辣で刺すような文言で世の有力者を震撼させた。」

サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河を挟んで、右に19世紀に改築された16世紀の住宅用の建物があり、レメール小広場と続きます。この小広場については、暫く前に書いた(2015.07.09)ブログレメール小広場に、ここに現れる幽霊の事を書きました。この小広場の建物について、上記の『大運河』は次のような事を語っています。

「18世紀の建物のある狭いヴェネツィア的なこの一角は、非常に典型的な風情に富んでいる。ここにかつてリオーン家、そしてモロズィーニ家所有の12世紀の建物があった。そこには大アーケードのある、大変美しく、典型的な外階段と素晴らしい井桁が残っている。

古いビザンティン様式の館の建築のために使用された大理石は、アルティーノのローマ式建築の物と同じ物であることに気付けば、興味深いことである。それはトルチェッロ島に運ばれて使用されたが、再び返され、ヴェネツィアの館の再建築に使用された。

リオーン(or レオーニ)は、レヴァントのアクル[San Giovanni d'Acri、イスラエル北部の港湾都市のこと?]に引っ越したが、1291年、町がイスラム教徒に征服されるや、一家は莫大な財産を持ってヴェネツィアに戻った。

しかし年代記が言うように、ラグーナに戻り上陸する前に、慎重なドメーニコは大評議会への参加が認められる保証を望んだ[セッラータはその数年後に起きた]。

1360年頃、ヴィード・リオーンはフランチェスカ・モロズィーニと結婚した。結婚式の夜、花婿は花嫁に自分の靴下を脱がすよう命じた。その事に関して、貴族の嫁は、憤慨して〝モロズィーニ家はリオーンの靴下を脱がす等あり得ない″と答えた。喧嘩が続き、フランチェスカは追い出された。その後もヴェネツィアでヴィードは、そうした事に我慢をしないパートナーと争い、通達により、貴族としての家柄、即ち大評議会から排除された。

この一家は、ヴェネツィアで著名な人物を輩出しているが、重大な事で不名誉を被ることになった。市のアヴォガドール(行政官)、その後本土の長老委員となったマッフェーオは、1540年、フランス領事に買収され、共和国の機密事項を洩らしてしまった。発覚するや逃げ出したが、首に1000スクードの懸賞金を掛けられ、永久追放になった。

彼の子孫は4世代後まで、貴族の称号を剥奪され、結局レメール小広場の館は取りこぼされた。上記の事が現在でも噂される。一家は19世紀に絶えた。」
  1. 2015/09/17(木) 00:05:43|
  2. ヴェネツィアの広場
  3. | コメント:0
<<ドルソドゥーロ区の美術館 | ホーム | 文学に表れたヴェネツィア――牧野英一>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア