イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ローマの支倉常長一行(2)

(続き)
「1613年に戻ろう。もっと詳しく言えば、ソテロ師が1612年当時、言及しているように、典型的にある政治的理由で、というより宗教的信念から未だ受洗していない伊達政宗――結局受洗に至らなかった――は、日本海岸からは行き易い中央アメリカや太平洋地域を牛耳るスペインの支持が得られるかも知れないと考えた。その支持とは、絶対に利益と繋がっている、更にローマの教会側から言えば、仙台の大名の政治的優位性から来るものであった。
パウルス5世支倉常長の像支倉常長像支倉常長[左、パウルス5世像、作者不詳。中左、教皇庁から常長に与えられたもの。明治になって公になった。中右、チヴィタヴェッキアの日本聖26殉教者教会の長谷川路可画の常長像。右、ボルゲーゼ所蔵、Archita Ricci画と言われているが、東北大学の田中英道教授はある理由の下、仏画家Claude Deruet画とされている。2014年東博の《支倉常長展》で来日。]
政宗はソテロと偶々知り合い、ソテロは彼の側室の病気治療のために、ある神父を派遣して、回復したという事があった。政宗はその後、彼に贈り物をし、自分の屋敷に招き、午餐を振る舞い、感謝の意を表した。

この予期せぬ好意を受けた時、カトリック教徒になれば、その藩主が持つであろう計り知れない力を褒め称え、彼は藩主にカトリック要理を教えようとした。カトリック教会の長である教皇の世俗的・地上的側面をも越えて、高位の絶対的権威の表現であり、発露であったからである。

このフランチェスコ派の神父には、イエズス会に対して〝小さな兄弟会(フランチェスコ派)“のこれほどまでの特別の勝利は、暫時であれ、日本の都で宗教活動を実際に任され、そして奥州藩主をもし改宗させることが出来ていたなら、それは大変僥倖なことであったろう。

ソテロの説教に感じたということより、西欧世界の力の記述に影響されて、政宗は個人的に地域の振興に野心を見せて、一種の砦であるようなキリスト教信仰の立場をはっきりと利用しようとした。迫害されるキリスト教の砦の任を自らに課し、この彼の任務への援助と感謝の意を込めて、マドリードの宮廷とローマへ使節を送ることを決めた。

〝大名“の使節として抜擢されたのは、正しくソテロであり、続いて家来の支倉常長六右衛門であった。二人に付き従った者は、御家来衆、家族、各種の使用人達であり、その大半の者は長い旅の途中、亡くなった。

フランチェスコ派の注意深い年代記には、初期から計画の実現を邪魔する、実際の困難や事件について触れている。1612年の初期の試行錯誤の後、1613年10月28日、到頭日本の港を出帆して、航路をメキシコへ向けることが出来た。太平洋岸から大西洋岸へ。メキシコの陸地を横断し、キューバに着。使節達は1614年10月5日スペイン南部の海岸に到着した。続いて、12月20日マドリードに至り、1615年1月30日そこで政宗の使節達はフェリペ3世の拝謁の栄を賜った。

仙台の一行は8ヶ月間の滞在中、〝大名″に期待されていた交易の承認をスペイン王から得たいと思いながら、結果的に零だった。

マドリードで支倉常長は1615年2月17日洗礼を受けた。洗礼名は彼の代父となったレルマ公デミア侯爵フランシスコ・デ・サンドイアル・イ・ロホスからフランシスコの名前を、スペイン王の名前からフェリペの名前を頂戴した。

次なるローマへの旅のために、スペイン語通訳の役で伊人シピオーネ・アマーティがこの使節に合流したのは、この期間のことだった。彼は使節団について詳細な記録を残している。8月22日にはローマへの旅が始まった。

ジェーノヴァに立ち寄り、パウルス5世への贈り物を納める箱を購入し、関税の支払免除を求めたが、マドリードでのように事はうまくいかず、ジェーノヴァのガレー船で航海が始まり、次なる目的地に向かい、チヴィタヴェッキアに上陸して、終着地の教皇領に至った。

為政者セヴェローロが代表するローマ当局との最初の接触以来、ローマの為政者の窓口となった者と使節の間の関係が恒常的なものとなり始めたが、そこには細々とした接触とは違った関係を築くことを阻止しようとするローマ側の警戒心があった。

確かに奥州では、使節を送り出した後、状況が変化しており、伊達政宗がパウルス5世やフェリペ3世に提案した政治上の協力や使節団の拡大等の案件の実現は、無理だったかも知れない。

しかし同様に、使節出発の時点からイエズス会が、密かにこの派遣に敵意を漲らせていたのは確かであり、フランシスコ会が始めた規制緩和(デレギュラシオン)とでも呼べるものは、日本で公教要理を教える事に基づいた、この微妙なバランス・ゲームを破壊してしまうかも知れないことが当然のように心配されており、今や事は悲劇的状況に向かって破竹の勢いで進んでいた。」 ―[(3)に続く]

常長一行がバルセロナからジェーノヴァに向かう途中、嵐に遭い、仏国のサン・トロペ港に避難したそうです。その時、サン・トロペ侯爵が日本人を初めて見たそうで、日本人が仏国に足跡を印した初めてと言われています。その事を侯爵が書簡に記した物が仏国カルパントラ市のアンギャンベルティーヌ図書館に保管されていて、アルフレッド・タンにより掘り起こされ、それを知った仏文学者高橋邦太郎先生に訳され、1971年7月29日の朝日新聞に掲載されたそうです。尚、その仏語書簡については、《ボルドー便り vol.122》というブログで詳しく触れられています。ご参考までに検索して下さい。
  1. 2015/11/05(木) 00:07:37|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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