イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: 932~976年

『図説 ヴェネツィア』(河出書房新社)の巻末年表の932~976年の項は、《カンディアーノ家が世襲的にヴェネツィアを統治》とあり、976年の項には、《反乱によりカンディアーノ家の治世が終わる。その際の火災でドゥカーレ宮殿が焼ける》とあります。

《歴代ドージェ表》には、ピエートロ・カンディアーノ(Pietro Candiano)1世(887-888)、ピエートロ・C.2世(932-939)、ピエートロ・C.3世(942-959)、ピエートロ・C.4世(959~976)、ヴィターレ・カンディアーノ(978~979)とカンディアーノ家の人が選出されています。G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)の932年の項には次のような事件が記載されています。
ヴェネツィア史 421-1099「この年ピエートロ・カンディアーノ2世が、第19代総督に選出された。彼は自然死した。彼は共和国の支配権強化に邁進した。先ず初めに、ヴェーネト地方の河川による交易を妨害し続けるコマッキオと争い、グラードの司法権を侵し、自分の領域内にいるヴェーネトの船舶から略奪したイーストリア侯ヴィンテーロ(Vintero o Wintero)と闘い、総大司教マリーノを介して、共和国に助けられ、認められた。」

また976年の項は次のようです。

「グラードの総大司教は総督の息子のヴィターレだったので、一家に政治的権威以外、宗教的権威も集中させたために、ヴェネツィア貴族としてはよく分からない、ドゥカーレ城[当時は宮殿ではなく、城砦]の火事と総督ピエートロ・カンディアーノ4世の暗殺ということだった。

彼の敵は、当時のビザンティン派の最も重要な一族で彼の西欧中心主義を嫌悪しており、総督の友である皇帝オットー1世がドイツでの反乱を鎮圧しようとしていたことを利用して、彼を解任させることを決めた。

しかし傭兵の守護隊による城の守りは固く、そのため謀略を成就させるために、火災攻撃をすることを決めた。海風がある日、ドゥカーレ城の向かいの海岸沿いの家に火を点けた(その家はもしかすると、陰謀に加わった将来の総督の家だったかも知れない)。火炎は城傍まで燃え広がり、総督は炎と煙に燻り出されて、城から出た。

ヴァルドゥラーダとの2度目の結婚による乳飲み子の長男のピエートロ・ジュニアが乳母の腕に抱かれ、逃亡しようと城外に出るや謀反の者が目前にあり、謀反人は近寄るや全員を殺戮してしまった。

最大の侮蔑の表現として、殺された遺体はリアルトの公共の畜殺場に運ばれた。貴族のジョヴァンニ・グラデニーゴが言った。《これらの死体による、畜殺場の悪名を避けるため、総督ピエートロ3世の墓の傍のサン・イラーリオに持っていき、埋葬しよう》 と。

グラードの総大司教である息子のヴィターレは、皇帝の傍に避難した。そこで次期の総督選出の陰謀を企てた。

火災では、ドゥカーレ城とサンタ・マリーア・ゾベニーゴの間の約300人の住民が火炎に呑み込まれた。」
  1. 2015/12/03(木) 00:05:19|
  2. ヴェネツィアの歴史
  3. | コメント:0
<<ガリバルディ通りの幽霊(1) | ホーム | ヴェネツィアの建物: セルナジョット館他>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア