イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア総督(5): ピエートロ2世・オルセーオロ(2)

(続き)『ヴェネツィア人物事典』「……この船団派遣は大成功であった。即ち、ピエートロ2世は巧みにナレンターニ人を分断するように攻め、要塞を孤立させ、結局飢えのために屈服させた。帰還の船旅で、総督の船団が休息に立ち寄った各町々は恐れ慄き、ヴェネツィアに服従することを誓った。こうしてイストラ半島とダルマツィアはヴェネツィアの保護領となり、ピエートロ2世オルセーオロは、dux Venetorum et Dalmaticorum(ヴェネツィアとダルマツィアの総督)という称号を帯びることになった。

この勝利が齎した価値とは、その時以後誰もアドリア海でヴェネツィアの優位に反論を唱える者がいなかったということを言えば、評価は歴然としている。ヴェネツィアにとっての危険と言えば、アドリア海以外の、ジェーノヴァ共和国やオスマントルコ帝国等の権力だった。

この船団派遣を思い出すために、更に毎年キリスト昇天祭の祝日、総督と司教、全評議員が記念すべき儀式を祝うために、栄えある船(ブチントーロ)に乗り、リード港の前まで進むという事があった。こうしてよく知られる海との結婚式、またはセンサのお祝いが生まれたのである。
海との結婚式2[現在行われている〝海との結婚式″の模様(La Nuova紙から借用)。2013.04.27日の海との結婚式もご参照ください。]
ピエートロ2世は、バーリをサラセンから解放(1003)するという、また更なる偉業もあり、聖マルコをヴェネツィアの守護神にする(1004)という決定的な選択をした。

1009年9月に亡くなり、15歳の息子オットーネが直ぐに彼の仕事を継いだ。しかし、総督職を世襲王朝にしたいというあらゆる試み同様、今回も失敗。二人の子供は宗教上の重職を受け、ヴィターレはトルチェッロとオルソの司教となり、1045年死んだ。三番目のジョヴァンニはトルチェッロの司教、続いてグラードの総大司教となり、1006年ペストで死んだ」
bacino Orseolo《オルセーオロ》の名前は、現在ヴェネツィアには、サン・マルコ広場のコッレール美術館へ上る階段左の直ぐに運河の見える所、ゴンドラの舫う溜まり場になっている所が、Bacino Orseolo として特に有名です。[写真はサイトから借用。]

ヴェネツィア共和国はこの頃を持って、礎期が終わり、地理上の発見、新航路の開拓等により地中海貿易がメインから外れて行く時期までの期間、セレニッシマの発展最盛期に突き進んでいくのです。
  1. 2016/03/17(木) 00:46:51|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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