イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(1)

ヴェネツィアの語学学校通学時、ヴェネツィアの街歩きに興味があるなら、お薦めの本があるよ、と言われ紹介された、先生ご推薦の本が次です。Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)。在学中、この本を片手に街を歩いてみた事があります。

このコルト・マルテーゼ(Corto Maltese)とは何者か? かつてジュデッカ島の隠された秘密探しにコルト・マルテーゼやアルレッキーノらに案内された事がありました。2008.08.17日のコンメーディア・デッラルテでコルト・マルテーゼについて少々書きました。イタリアのWikipediaの助けでこの人物について触れてみます。

「ウーゴ・プラット(Hugo Pratt)に1967年創出された漫画の中の人物、Cortomalteseシリーズの主人公である。 この名前はジェーノヴァ人フロレンツォ・イヴァルディの編輯経営する雑誌『Sgt. Kirk』の1967年の初刊号に初めて登場した。漫画に関心があったイヴァルディに彼を紹介したのは、ステーリオ・フェンツォだった。

イヴァルディは漫画愛好家であり、ウーゴ・プラットとの出会いからこの出版社の企画が生まれた。新しい雑誌『Sgt. Kirk』のためにコルト・マルテーゼなるキャラクターが誕生し、その物語『Una ballata del mare salato(死海のバラード)』は1969年2月雑誌20号で完了する。この作品は『コッリエーレ・デイ・ピッコリ』の23号から1971年の35号までの紙面で再び掲載された。

漫画本の最初の出版はモンダドーリ社編集により1972年である。ジェーノヴァ人との関係は1969年雑誌の終刊と共に終わる。 ……」
とウーゴ・プラットの活躍は始まり、20年間ほど続いたようです。海洋物中心なので、『La laguna dei bei sogni』(1971)『Favola di Venezia』(1977)等、ヴェネツィア関連の作品があるようです。このガイド本から、コースを一つ、カ・ドーロからのコースで紹介してみます。
Corto Sconto地図 カンナレージョ[右は案内図]  それでは出発しましょう、Pronti via !
「14世紀の、この素晴らしい建物から出発しよう。かつてファサードは多色大理石の上に嵌め込まれた高価な金箔で豊富に飾られていた。建物全体は、ゴシックというより、正確にはオリエント的味があり、マリーン・コンタリーニの要請による建物であったが、最後の所有者ジョルジョ・フランケッティ男爵という類稀な性格の人物による、豊富な美術コレクションに負うている。彼は死(1922)の数年前その素晴らしい遺産全てを国に寄贈したのだった。建物の最後の所有者には1章を設ける価値があるが、このマントヴァ出身のユダヤ系一家には際立ったものがあった。

ジョルジョ・フランケッティは色々の所有者の手を経て来た、というより滅茶苦茶な有様となったカ・ドーロを手にした。そして細心の注意深さで館を完璧に修復し、一連の芸術作品と重要な調度品等を収集した。結局、セレニッスィマ時代の裕福だった貴族の館の様子を再現したいという夢を実現した。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館[現在は左隣のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館と共にジョルジョ・フランケッティ美術館となっているようです。2015.02.26日にカ・ドーロ(1)を書きました。]
彼はエレガントな学識で、オリエントの豪華な絨毯とフランドルのつづれの織布、色々な地方の戦勝記念品、価値ある彫塑作品、当時の絵画や家具、珍しい貨幣や考古学的出土品のコレクション等に近付いていった。イタリアの色々な流派の絵画作品の中には、マンテーニャの『聖セバスティアヌス』がある。美しい中庭にはバルトロメーオ・ボン作の井桁、ビザンティンの盃のセットや古代ギリシアやローマの彫刻の数々、美しい外階段が2階に通じている。 ……」  (次回に続く)

ここでライモンデイ・フランケッティについて:
「フランケッティ家で最も冒険を好んだ人物は、勿論冒険家ライモンド(1891-1935)であるが、彼は岩山から支那海やアフリカまで間断なく旅にあった(参戦した第一次大戦は別にして)。20代、乗船中ペストが発生し、マレーシア島に上陸した。1年に渡って、一人ピグミー族と生活した。

誰しも彼が死んだものと見做していた時は彼はイギリス使節だった。彼が足跡を残した国々にアフリカがあるが、幾度となく使節として入国した。ダンカリによって殺戮されたジュリエッティ使節団は〝ダンカーリアもの″が記憶に残る。

こうした行動をもとに、『Nella Dancalia etiopica』という本を書いたが、彼の記憶の中では、彼によりジュリエッティと命名されたエティオピアの湖の名前から、娘をアフデーラと呼んだのだった。このAfdelaはヘンリー・フォンダと結婚し、4番目の妻となった。

この旅の期間中、ライモンドがコルト・マルテーゼに出会った可能性は大いにあり得るが、二人が個人的に交わした書簡は、残念ながら見つかっていない。結局、飛行機事故による彼の最期は、混乱を引き起こしたのだったが、それはフランケッティがエリトリア植民地の支配者と旅をしたり、ネーグス(Negus、エチオピアの王家)と戦争回避の可能性に関わっていたり、したからであった。」
  1. 2016/04/21(木) 00:01:57|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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