イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのゲット

少し前のブログ(05.19)で、ヴェネツィアのゲットについて触れました。ヴェネツィア人は何年もの間ラグーナの中の島を苦労して埋め立て等をしながら、潟の上にヴェネツィアの街を立ち上げていきました。そんな苦労を知らないユダヤ人に、ヴェネツィア人は2つの島を与え、永住を許可しました。郊外に幾らでも土地のある本土側と土地空間に限りのあるヴェネツィアの違いはそこにあります。G. ディステーファノ著『ヴェネツィア史』(Supernova、2010.02)の〝1516年3月29日″の項は下のように書いています。
[ヴェネツィアの語学校で伊語勉強中、バールの人に「どうして日本人は〝ボンジョルノー″とか語尾を伸ばすの?」と諫められました。確かに歌手カルーソーとか伸ばす癖があります。ヴェネツィアでは〝ゲット″ですが、日本人は〝ゲットー″と伸ばしますね。]
ヴェネツィア史Campo%20del%20Ghetto%20Nuovo,%20Venezia「1516年3月29日=元老院は、町のゲットと通称される区域に全ユダヤ人を集めると言うザッカリーア・ドルフィーンの提案を承認した。《ユダヤ人は全て、サン・ジローラモ傍のゲットの家の中庭に集まって住むべきなのである。そして辺りを一晩中うろつかないようになすべきは、それぞれそう呼ばれるように小さな橋(ponteslo)のある古ゲット側からと、同じく2つの門が出来たもう一方の側とから出入りされ、その門は朝マランゴーナ(アルセナーレの職人達を仕事場に向かわせるように、週日夜明けと共にサン・マルコの鐘楼で鳴らされる鐘音)で開門され、夜は12時に閉門される。それはユダヤ人から任され、我々の組合(Collegio)に相応しいと思われる賃金を支払われた4人のキリスト教徒が管理する》と。 

それ故通達はユダヤ人をゲットに隔離することが予想された。城壁を作り要塞島にする(城壁は作られなかった)、水門の城壁(窓を塗り潰すことはなかった)、門の鐵柵は夜には締められ、朝はマランゴーナの鐘の音で開門した、サン・マルコ鐘楼の鐘は町の生活に規律を与えるもので、人々を目覚めさせ、アルセナーレの職人達を仕事場に呼んだ。日暮れには十人委員会の船がゲット島の周りを警戒に回った。

Ghettoという言葉は、geto(ジェート―鋳造)に由来し、3月29日の通達の投票後3日の内に最初にゲット入りしたドイツ系ユダヤ人が、"g"の発音を〝グ音″でしたことによる。Getoあるいはgettoは、隣接した鋳造場を意味し、鐵を溶かし、大砲を鋳造したりしたが現在未使用で、というより大雑把に言えば廃棄場の略称であった。カンナレージョのGeto Nouvo(新ゲット)が、周りの建築中の残滓やGeto Vecchio(古ゲート)に置かれた鋳造場のスラグの残滓の捨て場であったからである。
[gettare(鋳造する)、getto(鋳造―ヴェ語geto)。ユダヤ人の〝ゲット″の発音に合わせてこの島をgheto ghettoと綴る]

宗教上の軋轢のためユダヤ人[外国人として、経済力という背景があった?]を隔離する、疎外するという考えはヴェネツィア的ではない。ヴェネツィア人はただ彼らを管理するために境を設けたかった、商館の商人達がするようにである。彼らを密な監督下に置ける限定空間を設けただけのことだった。ドイツではユダヤ人は町の中心に定住することは出来なかったので、別な場所に向かい、《迫害され、殺され、追い払われて、ヴェネツィアに避難所を見出した》のだった。独系、西系、伊系、東方系……のユダヤ人だった。

大多数がサン・カッスィアーン、サン・スティーン、サン・ポーロ、サンタ・マリーア・マーテル・ドミニ地区、あるいは町の商業活動の中心であるリアルトの大国際中心地の裏手の住みたい場所に住んでいたユダヤ人達との間に境界を設置するという決定は、フランチェスコ・ダ・ルッカが火付け役だった。彼は1514年貴族の許可を得て、ヴェネツィアのユダヤ人の取調べ会社を開いたのである。

ユダヤ人を移動させるという考えは翌1515年には熟したので、今やその提案、あるいは大評議会に提示されたその一部は貴族のジョルジョ・エーモによって読み上げられ、ユダヤ人達は最高に不当な仕打ちだとした。エーモはジュデッカ島に閉じ込めることを提案したが、むしろ全員がムラーノ島に越していいと言っていたユダヤ人の要望で、彼らを邪悪だと非難していた十人委員会委員の別の貴族ザッカリーア・ドルフィーンによって再び取り上げられた決定を先送りした。

コンスタンティノープルではユダヤ教徒もイスラム教徒も城壁で囲まれた自分達の区域を持っているように、彼らを閉じられた空間に置く必要があった。こうしてゲットに送り、跳ね橋で隔離することが決定した。ゲットではユダヤ人は《中古品店や担保銀行》を開いた。しかし1525年追い出され、再びメーストレに戻らねばならなかった、1533年には永遠に居住してよしと再認されることになるが。

しかし新ゲット島は全ユダヤ人を収容するには不十分の広さだったので、キリスト教徒の不動産所有者(ユダヤ人には家の購入は認められなかった)は、家を高くし、8階まで存在する。続いて1560年には、新ゲットに古ゲットが追加されることが決定され、3年後の1563年には隣接地に配置された全20住居として新々ゲットが開かれた。

その間に鋳造場は引っ越しをしていた。ゲットには4000人の住民がいたが、21世紀には500人に減少した。1797年以降ユダヤ人は最早住まいは強制されていない、町中に散らばり、自分の家を購入出来た。……
1516年[デ・バルバリの地図には、1500年には既に城砦のようなゲットが描かれています。1516年との整合性はどうなのでしょうか。]  この古い空間は、かつては町の周辺だったが、基本的に記憶に留める場所、尊敬し訪問に値する場所、また重要な観光地となり、ヴェネツィア観光の中心の一つとして、出身地が同じそれぞれのグループに一つあるスコーラ(教学館)あるいはシナゴーグ(教会堂)が建っている。1528年のスコーラ・グランデ・テデスカ、1532年のスコーラ・カントン、1541年のスコーラ・レヴァンティーナ、スコーラ・スパニョーラはB. ロンゲーナによって改築され、また1575年のスコーラ・イタリアーナがある。」

私が初ヴェネツィア行をした1994年、ゲットに住むユダヤ人家族は6家と言われ、広場には丸で人気がありませんでした。近年ゲット広場に行くと、キッパ帽を被った人や山高帽から上下服まで黒で正装したユダヤ人等色々見かけ、賑わった風に変わってきています。今やこの広場はユダヤを世界のユダヤ人に発信する震源地となったのではないでしょうか。

ヴェニスを書いた作品として『ヴェニスの商人』(シェイクスピア作、1588年頃)は有名ですが、ユダヤ人がゲットに移住することを強制された1516年から70年経って、ユダヤ人が堂々とリアルトで金貸しを営み、商業の事が分かっていない、ヴェネツィア商人落第生の〝ヴェニスの商人″を描き、一休さんの頓智話程度の裁判劇でヒットラーのようにユダヤ嫌いを表明したシェイクスピアという英国作家のこの作品!

ある年のヴェネツィアのコンサートで、写真を撮って上げた3人の旅行者は、後ろの席から日本人と見て態々写真を撮って呉れと声を掛けて来たイスラエルの人。帰国して現像してイスラエルに写真を送ると、一月後ほどして大きな荷物が届きました。イスラエルの現在を撮った、大判で分厚い写真集でした。最初伊語で文章を書き、英語に逐語訳して送った結果でした。イスラエルの国の一端を知りました。

1516年ユダヤ人がヴェネツィアに定住することが法律で認められ、今年が500年記念年です。《La Nuova紙にその事についての記事があります。
プリーモ・レーヴィそのイスラエルが嫌で、トリーノのアパートで5階から身を投げた、ポーランドのオシュヴィエンツィム(独語アウシュヴィツ)を生き延びてイタリアに帰国したプリーモ・レーヴィ。杉原千畝の事、昨秋パリの、ヴェネツィアのソルボンヌ留学生ヴァレーリアさんが殺された同時多発テロもありました。中東の夜明けはあるのでしょうか。
  1. 2016/06/09(木) 00:03:19|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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