イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

天正遣欧少年使節: 伊東マンショ像展

昨日、上野の東京国立博物館へ行ってきました。日伊国交樹立150周年記念で来日した Ito Mancio 像展『特別公開 新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像』展(05.17~07.10日)が始まったというので見学に行きました。生きている内に、正にこの絵を見ることが出来たとは!使節団について語られ、描かれたと言われていた絵は未発見と知って以来、想像だにしたことはありませんでした。公開に先立って読売新聞(05.17)に記事が出ました。東京の後、長崎や宮崎へ回るそうです。2014.10.18日の寺﨑武男展で、この像の初めての発見について触れました。
読売新聞シンポジウム  マンショ像展パンフマンショ展パンフこの展覧会の開始に当たって、イタリア文化会館で《イタリアと日本、初めての出会い ドメニコ・ティントレット作「伊東マンショの肖像」の発見について》というシンポジウムがあり、聴講させて頂きました。日伊のパネラーの先生方のお話で色々教えられました。使節がヴェネツィアを訪れた時、政庁は総督宮殿の外交使節等を招く4つの扉の間を飾るために大ティントレットに使節の絵を注文したそうです。

使節案内役のローマ一辺倒のイエズス会とは折り合いが悪くなり(数年後ヴェネツィアから追放されます)、その注文が有耶無耶となり、父ティントレットが描いていた絵を息子で肖像画家であったドメーニコが切り取って、Mansio の像を完成させたのではないかとされていました。そのため絵は一度も総督宮殿に飾られることはなく、ドメーニコの娘が財産処分で、スペイン大使ドン・ガスパール・デ・アーロに売却し、その後の転々としてトリヴルツィオ財団に至る顛末を財団会長が語られました。

その追究調査の過程で、キャンバスを額から外し裏面を見ると"D. MANSIO…"の銘文とか〝1585″の年記等の記述があり、イタリアの史料から伊東マンショ像であると特定出来たようです。その淡々とした講演の背後に、マンショ像を特定出来た人々の悦びの在り様がひしひしと伝わってくるような気がしました。そうした事実を知ると、当時16歳くらいだった日本人青年の姿に、丸で昔からの知り合いであったような懐かしささえ感じてしまいます。
マンショ像正像ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』このシンポジウムで私が教えられたことの一つ、2010.09.25日に書いたブログヴェローニカ・フランコに載せた絵がティントレットと書いてあり、そのまま載せたことがありましたが、それが大ティントレットの息子のドメーニコだったということを知ったことです。肖像画家でもあったドメーニコには客に高級娼婦(コルティジャーナ)もあり、数多いコルティジャーネの中にヴェローニカ・フランコの肖像があったのです。大ティントレットではありませんでした。
[追記: 講演中、ドメーニコが描いたとされる高級娼婦の絵の中にこの絵も示され、てっきりドメーニコの物と早とちりしたのですが、1573/1575年作とあるので、1560年生まれのドメーニコの物というのは聞き違いでしょう。以前はこの絵の帰属はティントレットではなかったようです。]

イタリアの新聞《イル・ソーレ・ヴェンティクァットロ・オーレ》紙はこの絵の発見の報を受け、〝東京はイタリアに派遣された最初の日本人の、発見されたばかりのこの肖像画を見せて欲しいと言っている″として、2014.04.08日のIl Sole 24 Ore紙上に次のように書いています。

「 イタリアへ派遣された最初の日本人(1585)の肖像画の発見。日本はドメーニコ・ティントレットの絵の鑑賞を願っている

イタリアに到来した最初の日本人の、油彩による肖像画の最近の発見は、日本の知識階級に大反響を興した。伊東マンショは九州大名のプリンスであり、イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノによってヨーロッパに送られた4人の若者日本人侍派遣団のリーダーを務めた(1582~1590年続く旅を行った、その時代の名前で、日本では《天正遣欧使節》として知られる)。

トゥリヴルツィオ財団のパーオラ・ディ・リーコは『トゥリヴルツィアーナ』誌の論文の中で、その発見と絵の帰属〔ティントレット(1519ヴェネツィア~1594ヴェネツィア)と呼ばれた画家ヤーコポ・ロブースティの息子で、芸術の相続人であったドメーニコ・ティントレット(1560ヴェネツィア~1635ヴェネツィア)に帰属〕の詳細を報告した(高さ54㎝X幅43㎝、絵は切断されており、残りの3人の絵もあっただろう)。ディ・リーコは個人コレクションを整理するに際し、キャンバス裏の Mansio の表記と広範に渡る調査研究により、オリエント風の顔立ちの若者のこの絵を発見したのだった。

東京大学文学部の小佐野重利教授は、イタリア文化の大知識人であり、流布した思いを代表して、この絵は将来日本で、賞賛されるに違いないと表明した。伊東マンショ後30年弱で、仙台藩主伊達政宗が公式の使者としてヨーロッパに派遣し、アルキータ・リッチが描いた支倉常長の、ボルゲーゼ美術館の大きな肖像画が展示された時と同様である。

その絵は2011年の大津波の犠牲となった人々への、イタリアからの連帯感(追悼)の表明として、東北地方を代表して仙台で展示され、その後、東京の国立博物館で展覧された。

《イタリアとの古い絆である、発見したての伊東マンショ像が来日出来ることになれば、それは喜ばしいことです。ドメーニコ・ティントレットに帰属したことは根拠あるものであり、ヴェネツィア派の重要な画家である人のこの肖像画は、今日我々を驚かし、生き生きとした、丸で生きた人のように、見るからに無邪気であどけなさを持つ、日本人使節を示しています》と、小佐野教授はコメントしている。 ……(以下略)」
若冲展パンフ若冲展パンフ裏この日は欲張って、『生誕300年記念 若冲展』も3.30時間並んで見てきました。見終わって外に出ると20.00時、まだ長蛇の列が並んでいました。見終わった時は、22.00時を軽く回ったことでしょう。
  1. 2016/05/21(土) 22:39:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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