イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

谷崎終平さんの思い出

昨年秋、ヴェネツィアのカ・ペーザロ(東洋美術館)の売店で本を買ったことは以前書きましたが、その本『Tanizaki Jun'ichiro` Yoshino』(Letteratura universale Marsilio、1998、2006)を漸く少しずつ読み始め、関連して思い出すことの幾つかを記してみます。
Yoshinoこの本は《Mille Gru Collana di classici giapponesi diretta da Adriana Boscaro》というシリーズの1冊で、ヴェネツィア大学日本語学科主任教授アドリアーナ・ボースカロ教授の伊訳に寄るものです。ボースカロさんについては2008.01.09日のヴェネツィア大学や2008.01.19日のザッテレ海岸通りで触れました。

これは谷崎潤一郎の『吉野葛』を訳したもので、近年都内に住む娘が吉野古道を歩いてきたよ、と話してくれたのに誘われて、何年か前読み返したものを再度読みました。伊語で読むとまた異なった感懐があります。〝日本的″というとどうしても漢字やひらがなと、感性が結び付いてしまいます。

2009.12.26日日本の災害ニュースと題してブログを書きましたが、それはヴェネツィアのサン・マウリーツィオ広場で定期的に開かれる骨董市で買った古い絵入り新聞が、1938年神戸で起きた大水害事件の絵を掲載しており、この水害事件を谷崎潤一郎が『細雪』の中で物語に取り込んでいると知っての事でした。

谷崎は大東亜大戦中、空襲警報下でも原稿用紙に向かう姿勢を崩さず、只管『細雪』の完成に打ち込んでいたといわれます。谷崎流の韜晦した、戦争反対の意思表示だったのでしょうか。

かつて勤め人時代、私の席の背中合わせに谷崎終平さんという大先輩があり、一緒に仕事をしたことがありました。谷崎潤一郎の末弟と紹介されました。終平さんは気さくな人で、私など若造を隔てなく付き合って頂きました。その内終平さんを頭に他の先輩2人と私にも声を掛けられ、4人で屡々仕事帰りに酒を酌み交わすこととなっていきました。終平さんは日本酒好きで、飲酒後は甘い物を欲しがり、よくアンミツ屋のような所へも連れ回されました。甘い物苦手の私はトコロテン等を食べていましたが。

あちこち飲み歩きましたが、上野の湯島天神下の十字路角に〝シンスケ″という飲み屋(昔は木造の1階屋だったのですが、現在はビルに)があって、お連れした時、「ここはよく健ちゃんに連れてこられたよ」と言われ、「健ちゃんって誰ですか」と問うと、評論家で英文学者の吉田健一氏のことで、終平さんは当時懐具合が芳しくなかったようです。兄に養ってもらっていたと言ってました。

会社の旅行があって、その足ついでにその先に脚を延ばし、塩原、上高地、伊勢などに4人組で行きました。終平さんは終始朗らかで、若い者達の笑いを取る旅でしたが、唯一参ったのは、睡眠中の歯軋りでした。初めて終平さんの歯軋りを聞いた夜は朝方まで眠れませんでした。しかしいつも4人セットの旅でした。

終平さんは我々の酒席では潤一郎の事は話しませんでしたが、『痴人の愛』のナオミのモデルになった、現おばあちゃんが健在の事を話したことがありました。終平さんがお亡くなりになった後の事ですが、おばあちゃん達の皺を克明に描く鉛筆画家の木下晋画伯がナオミおばあちゃんを描きたいと言われ、谷崎家に交渉したことがありました。完成し、無事におばあちゃんのお披露目の展が開かれ、楽しく拝見しました(池田20世紀美術館)。
木下晋 『懐しき人々』終平さん執筆の『懐しき人々――兄潤一郎とその周辺』(文藝春秋、平成元年八月十五日――出版記念会は日比谷公園の松本楼でした)を読んで、初めて一晩中寝ないでお通夜をしたのは、佐藤春夫が亡くなった時と終平さんは書かれ、以後私もお通夜は寝ないで燈明や線香を欠かさないものだと、親父のお通夜を始め、終平さんの範に従っています。

偶々私の娘(終平さんの娘さんが外交官に嫁ぎ、外国で生まれた終平さんの孫の代りに、私の娘の幼児の写真を所望され、定期券の裏に収まっているのを見せられたことがありました)が清州橋の側にアパートを借りていて、訪ねる度に人形町の甘酒横丁近辺を何度も歩きました。潤一郎が生まれたのはこの辺りだったのですね。一杯引っ掛けてのこの界隈の街歩きは楽しいです。

TVでドナルド・キーンさんのお話を聞くと、ノーベル文学賞候補に先ず谷崎潤一郎、2番手に川端康成、次いで三島由紀夫だったとかだそうです。1965年には谷崎は亡くなり、1968年に川端がノーベル賞を受賞します。しかし1958年、1960年と谷崎は候補に上っていたらしいですが、時機熟さずだったようです。終平さんの〝お兄ちゃん″、残念でした。
  1. 2016/06/30(木) 00:05:32|
  2. | コメント:0
<<サンタ・マルゲリータ広場 | ホーム | ラグーナ・ヴェーネタ(ヴェネツィア潟)の自然(2)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア