イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コルネール・デッラ・レジーナ館(1)

ブラガディーン・ファヴレット館を右へ進むと、右隣にコルネール・デッラ・レジーナ館があります。R. ルッソ著『ヴェネツィアの建物』は次のような話を書いています。
Corner_regina[サイトから借用] 「1454年、この館で有名なキプロスの女王カテリーナ・コルナーロ(ヴェ語Corner)が誕生した。リュジニャン家のジャック2世(GiacomoⅡ di Lusignano、フランス系王家)の妃であった。ジャック2世は王ジャン2世(GiovanniⅡ)の庶出の息子で、正当な相続人で、サヴォイア家のルイージの妻シャルロット(Carlotta)を蔑ろにして、キプロスの王冠を横取りしていた。権力を奪い返されることとトルコの攻撃を恐れていたので、セレニッスィマとの友好関係を強固にしたいと、ヴェネツィアで妻を探すことにした。

マルコ・コルネールには13歳の娘がいた。ルネサンス期の法規では、結婚可能年齢だった。直ぐに少女カテリーナの肖像画が送られた。言い伝えは言っている、王は肖像画を見るや、彼女にぞっこんとなったと。

こうして1468年7月31日、ヴェネツィアで代理の結婚式が盛大に祝われた。カテリーナは、彼女以前にどんな女にも与えられたことのない名誉である、セレニッスィマの娘として養子縁組され、国家は金貨100万ドゥカートの持参金作りに参加した。

4年後、王妃は壮麗な船列を従え、王国に向かった。ファマグスタ(Famagosta)大聖堂で、キプロス、エルサレム、アルメニアの王妃として戴冠した。しかし結婚は長続きしなかった。ザーコ王(リュジニャン[Lusignano]はフランス系なので、ジャック(Jacques)としてのザーコ[Zaco])は、1473年7月亡くなり、全てはカテリーナに遺され、彼女は息子を妊娠中だった。死の床の王は、リュジニャンの全遺産を彼女に託し、王国を統治するのは摂政団に助けられた彼女だった。

しかしその少し後、カテリーナはザーコ王の庶出の息子達に全権を譲るように要求する謀反人の手に落ちた。ヴェネツィアは時宜よく行動を起こしており、セレニッスィマの船団がキプロスに上陸し、謀反人達は逃亡した。

小さなジャック3世はその年、熱病で亡くなった。施政官と2人のヴェネツィア貴族に付き添われ、女王は今や、完全に象徴的な存在であり、1487年元老院はヴェネツィア領にキプロスを併合することを決め、カテリーナを退位させた。」 (2へ続く)
  1. 2016/08/11(木) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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