イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

コルネール・デッラ・レジーナ館(2)

(続き)
「その交換として、カテリーナにアーゾロの領地が与えられた。洗練され、エレガントな小さな宮廷は芸術家や文学者らで活気付き、20年アーゾロを統治した。サロンと上流階級のパーティの女王は、イザベッラ・デーステやベアトリーチェ・スフォルツァの友人であった。カテリ-ナ・コルネールは作家やロマン主義的詩人を鼓舞した。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内 ベンボ像アーゾロの談論長い間、アーゾロ宮廷にピエートロ・ベンボが通った。彼は、女王と女王の宮廷を対話集『アーゾロの談論』の中で神話化した。[『アーゾロの談論(Gli Asolo di Messer Pietro Bembo)』(仲谷満壽美訳、ありな書房、2013年3月15日)]

カテリーナはしばしばヴェネツィアに戻り、大運河に建つ建物で豪華な歓迎会に招かれた。そこでは数々の結婚式が祝われた。その中には従妹のクェリーニ・グラデニーゴと、弟にパンドルフォがあり、リーミニ領の奪われた権力の相続人カルロ・マラテスタとの結婚があった。

女王は1510年、大運河の彼女の館で亡くなった。そして館は兄弟ジョルジョの手に渡った。

1700年代コルネール兄弟は、流行りのスタイルで自分達の住処を作り直すことに決めた。その案はドメーニコ・ロッシに委託され、建築は1724~28年続いた。内部もその時代の趣味で装飾され、前からあったフレスコ画は外され、代わりにジャンバッティスタ・ティエーポロにも任されたに違いない。

館は1800年までコルネール家の手にあった。最後の子孫カテリーノはその建物を教皇庁に譲ったが、ピウス(Pio)7世はアントナンジェロ(アントンアンジェロ)とマルカントーニオ・カヴァーニスの二人の司祭に贈り、二人は裕福でない階層の若者教育に邁進する信心会を設立した。

ヴェネツィア市は彼らからそれを贈られ、そこを公営質屋とした。1971年にはこの機関はメーストレに移され、館の所有はヴェネツィア信用金庫に移った。

実際にはヴェネツィア・ビエンナーレの管理下にあり、修復の期間を経て、ここに現代芸術歴史資料館が設置された。資料館には資料豊富な図書室と定期刊行物資料室以外に写真資料室もあり、そこには写真の複製品が保存され、1895年[第1回ビエンナーレの年]以来、全ての作品はビエンナーレで展示紹介されてきた。 」
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」カテリーナ・コルナーロについては、2013.03.23~2013.04.06日にカテリーナ・コルナーロ(1、2、3)で触れました。
  1. 2016/08/18(木) 00:05:00|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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