イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

エレオノーラ・ドゥーゼ(2)

(続き)
「バルバロ館から僅か2m強離れてダーリオ館があるが、この不幸な館はラウール・ガルディーニの最近の不幸を含む、不吉な呪いが罹ったのか、多くの不運の痕跡を示して、深刻であると言われている。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ここ数年ダーリオ館には、ラ・ボーム公夫人が住んで、知的友人達との小さな社交場を開いていた。そこにダンヌンツィオが彼の翻訳者ジョルジュ・エレルに連れて来られた。このサロンに足繁く通う友人達には事欠かなかった。例えば、アンジェロ・コンティ、当時ヴェネツィアの国立レジエ絵画館の館長に任命されたミスティクス医師、スペインの変幻自在の画家で舞台美術家のマリアーノ・フォルトゥーニ、そしてマリウス・ピクトール、即ちダンヌンツィオが定義を下したように“風変わりな聖なる画家”のマーリオ・デ・マリーアである。彼にジュデッカ島にオリジナルとなるデーイ・トレ・オーチ館が建てられ、そこからサン・マルコ湾が望めた。そして時にヴェネツィアにいる時、ドゥーゼもそこに出かけなければならなかった。

ある人が、正確に言えば大監督ラインハルトの事だが、家の門(水門の事)近くで不眠で夜遊びしている二人、ダンヌンツィオとドゥーゼのヴェネツィアでの偶然の出会いについて語っている。2艘の別の船で来て、同じ場所で船を降りたに違いない。ラインハルトは書いている。《彼女は彼を知っていた。彼は彼女に近付いた。そして一緒にヴェネツィアの夜明けの中、歩いていった。》

ロマンティックなことだ! 誰に分かろうか? 真実だったかも知れない。二人の間で愛について語られたかも知れないのは確かである。10年前のローマでの束の間の、儀礼的な出会いではなく、1894年の黄金色に紅葉した秋に、ここヴェネツィアで生まれた。

この愛の推移に従うことは、彼と彼女をより理解する助けとなる。そしてガブリエーレとエレオノーラの書簡が、劇作家の姉妹で、友人のテレーザ・ジャコーザに処分を頼んだエレオノーラ本人の意志で、消滅させられたのは真に残念である(否――言われているような事ではない――彼女の娘の意志だった)。

しかし、エレオノーラという存在をガブリエーレ・ダンヌンツィオとの関係で貶めることはない。彼女は偉大な女優であったし、あの伝説的な最初の出会いの時、詩人が幸運な直観で彼女を定義したように、偉大なるアマチュアでもあった。そしてもし、生き生きとした、色々な感情生活を送られたなら、自分の芸術のためにその恋愛体験を利用することが出来た筈である。

地味な役者テバルド・ケッキとの結婚後、1882年には娘エンリケッタが生まれた(彼女はイギリスの大学教授と結婚することになる)が、若い役者フラーヴィオ・アンドと短期間関係を持った。
メフィストーフェレメフィストーフェレ 2[左、オペラ『メフィストーフェレ』CD、右、その役柄] しかし1884年詩人で音楽家のアッリーゴ・ボーイトと結ばれた。文化的な広がりと深さを兼ね備えた男である。彼は音楽台本『メフィストーフェレ』の作家で、ジュゼッペ・ヴェルディの数多くのオペラ台本『オテッロ』『ファルスタッフ』の著者であったが、中でもミラーノ蓬髪主義運動の状況の中で、関係文書が沢山あり、それは1800年代末のイタリア文化の最も活発で創造的なマニフェストと考えられる。

ボーイトは彼女のために、ウィリアム・シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ(Antonio e Cleopatra)』を脚色したが、それはミラーノのマンゾーニ劇場で、1888年11月22日上演された。

そして少しずつエレオノーラの脚本とレパートリーが増え、またジュゼッペ・ジャコーザの演劇台本も増えていった。ジャコーザはボーイトの大親友であったし、ドゥーゼの親友でもあった。」 (3に続く)

ボーイトについては、2010.03.27日のカミッロ・ボーイトでも触れました。
ジュゼッペ・ジャコーザはプッチーニの『ラ・ボエーム』や『蝶々夫人』等の台本を書いた作家です。
  1. 2016/09/01(木) 00:02:08|
  2. | コメント:0
<<ヴェネツィアのレガータ・ストーリカ(歴史的レガッタ) | ホーム | 観光客の礼儀>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア