イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

エレオノーラ・ドゥーゼ(3)

(続き)
「二人の最初の出会いは1884年5月14日だった。ミラーノのカルカノ劇場で『椿姫(La Signora delle Camelie)』を演じたドゥーゼのための晩餐会の時だった。アッリーゴは彼女の隣に座った。晩餐会にはジョヴァンニ・ヴェルガも出席しており、ほんの数ヶ月前トリーノで、彼の『カヴァッレリーア・ルスティカーナ(Cavalleria Rusticana)』を演じていた。
ボーイトドゥーゼ像[アッリーゴ・ボーイトとドゥーゼ、サイトから借用] 何日か後、ボーイトは彼女に次のように書いた。《貴女は出発した。糸は切れて、我々全員は地面に投げ出された。ヴェルガ、グァルドと私は床に鼻を付けるしかなかった。》 こうして彼らの関係は始まった。7年続き、残された数多くの書簡が証明するように、その関係は濃密で、情熱的だった。

しかし秘密があった。事実、書簡は1979年にやっと出版された。更に二人の間には愛情に溢れた郵便物が証言するように、常に親愛の情に溢れていたし、1918年の彼の死の時まで続いたのだった。

ボーイトと関係の続く年月の間、ドゥーゼはフィレンツェに住んだ。最初はスィニョリーア広場5番地、更にサンタ・マリーア・ノヴェッラ広場1番地。ボーイトは彼女にとって、友人であり、恋人であり、師であった。彼にとって、ドゥーゼとは劇場が文化となり、十全に自覚する大女優であった。

しかし彼の前に、彼女にはジャチンタ・ペッツァーナという偉大なる師があった。彼女は独創性豊かな、あらゆる事に関心を抱くマッツィーニ主義者で、男女同権論者だった。彼女は近代劇の1800年代型の主役というものを、新しい役柄として理解し、また19世紀初頭のヴェリスタとして彼女を指導した。エレオノーラはその教えを深く吸収した。土地は肥沃だったのである。その見習い期間、早熟で、実り豊かなものだったのだから。

1870年12歳の時、病気の母とペッリコの『フランチェスカ・ダ・リーミニ(Francesca da Rimini)』と、マレンコの『ピーア・デ・トロメーイ(Pia de' Tolomei)』の主役を交替した。以後1873年には、父の劇団で安定して役を演じていたが、2年後ペッツァーナ=ブルネッティ劇団に2番手の役柄で移動し、1878年(20歳)までチョッティ=ベッリ=ブラーネス劇団でプリマの役で演じた。

しかし彼女は満足していなかった。1 年後ジャチンタ・ペッツァーナと一つの劇団を立ち上げ、1879年ナーポリのフィオレンティーニ劇場で、ゾラの『テレーズ・ラカン(Teresa Raquin)』で大成功を収めた。その時以来、彼女の成功は数え切れない。その時代の最も偉大な女優として、サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)と共に考えるのは当然である。

1889年エジプト巡業と共に世界的な巡業を開始し、ドゥーゼは全ヨーロッパ、ロシア、3度は合衆国へと渡った。それに先立って、1885年チェーザレ・ロッスィ劇団と南アメリカへの巡業があった。帰国して夫と別れ、ローマ市のドランマーティカ劇団をフラーヴィオ・アンドと共に立ち上げ、座長となった。」 (4に続く)
  1. 2016/09/08(木) 00:03:10|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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