イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

エレオノーラ・ドゥーゼ(4)

(続き)
「ダンヌンツィオとの関係が始まった時、エレオノーラはヨーロッパでも海外でも著名度は頂点にあった。そして彼女に更に与えてくれる人、彼女を更に受け入れてくれる人、2人の人物から求められていた。彼女こそダンヌンツィオの戯曲[『春の朝の夢』『ラ・ジョコンダ』『フランチェースカ・ダ・リーミニ』『死せる都』『イオーリオの娘』(イオーリオという名前はこの作品から有名となる)]を舞台に掛ける人だった。
ダンヌンツィオに夢中だった[ダンヌンツィオ。以前の展覧会チラシから] 彼女自身がプロデュースに出資し、海外での成功や批評への関心を請け負った。それにも拘わらず、1896年にはダンヌンツィオは『死せる都(La ville morte)』のフランス公演で、関心がサラ・ベルナールに行ってしまった。

1897年7月、ドゥーゼはフィレンツェ近郊の、憧れのセッティニャーノにカッポンチーナ(カッポーニ家の所有だった)と呼ばれた1400年代の古い、小さなヴィッラを“ポルツィウンコラ”と聖フランチェスコ風に名付けて(二人の内、誰がそう呼んだか分からない)借りた。この偉大な愛の月日に、創造的な発想が生まれた。

古代のクラッシック劇場のように、戸外での詩のための新しい劇場が誕生した。そしてこうした将来を見越した環境で、ダンヌンツィオは次のような作品を書いた。1897年『春の朝の夢(Sogno di un mattino di primavera)』、1898年『死せる都(La Citta` morta)』、1899年『ラ・ジョコンダ(La Gioconda)』、1899年『栄光(La Gloria)』、1901年『フランチェスカ・ダ・リーミニ( Francesca da Rimini)』。また1900年には、エレオノーラとの関係で霊感を得た『炎(Il Fuoco)』、『イオーリオの娘(La figlia di Jorio)』。

しかし最初の5作品は成功作ではなかった、というより、その費用を援助したドゥーゼにとって、経済的に悲惨なものだった。一方『イオーリオの娘』は評判が高く、ミラーノのリーリコ劇場で1904年3月2日板に乗った。しかし演じたのはドゥーゼではなく、イルマ・グランマーティカ(ルッジェーロ・ルッジェーリと)だった。彼女は病気だったと言われており、多分仮病だったに違いない。

事実、今や彼女は外国巡業で体が塞がっており、借金の経済的修復を迫られており、それを証明する仕事だった。今や聖なる詩人の生活の中に、侯爵夫人ディ・ルディニが登場していた。未投函のエレオノーラからガブリエーレへの長い手紙の下書きを読むと、《貴方は私を使っては投げ出す楽器に分類したわ。でも多かれ少なかれそんなあるもの、私とは人生の中のちょっとした何かなの。そこに深くて遠い何かを感じるわ。貴方には全てを話した――もう何もないわ。》

そして1917年9月23日『Taccuini(手帳)』の中でダンヌンツィオは書いた。《どんな女もギゾーラ[愛称。ダンヌンツィオが彼女の所に赴くとこう呼びかけた]のように私を愛しはしなかった、その前も後も。これこそが呵責の念に引き裂かれ、哀惜の思いで慰められる真実である。》 しかし彼女はこのフレーズを読んだことはなかった。『手帳』は1965年に出版されたから。彼女はダンヌンツィオとの破局後、すぐに演ずることを止めた。

数年後の1916年、唯一映画で演じた。グラーツィア・デレッダの小説の脚色である『灰(Cenere)』である。1921年舞台に戻り、1924年4月21日アメリカ、ピッツバーグ公演中、最後の巡業途上で客死した。

彼女はアーゾロに葬られた。その地で最後の年月、カノーヴァ通りの小さな館に住んだ。その壁面には詩人の言葉による碑が読める。
Asolo 1Asolo 2数年前マルコ・プラーガが書いた。《アーゾロは美しい、静かな、レースと詩の小さな町である。我が愛するヴェネツィアからさほど遠くない。そこには我が愛する、良き友人達が集っている。グラッパとモンテッロの間、ここは我が最後の老いの避難所である。この地に眠りたい、というか、思い出して欲しい。必要ならば言ってくれ。》 彼女は聞き届けられ、サンタンナ墓地に眠る。》 」 (終り)

ガブリエーレ・ダンヌンツィオについては2010.02.13日のイタリアと日本の関わり(2)や2013.10.26日のベンゾーン・フォースコロ館他等で触れました。 
  1. 2016/09/15(木) 00:03:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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