イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(8)

(続き)
「この比類なき寺院のアートリオ(柱廊玄関)に暫し足を留めて、頭を上げると、モザイクで描かれた古い“漫画”を目にすることが出来る。旧約聖書の一連の物語である。発見者によれば、フィンランドの研究者ティッカネンは大英博物館の木綿聖書の中にあった5~6世紀の初期キリスト教のミニチュアを正確に模写した、即ち、それはコンスタンティノープルの占領があった12世紀にはヴェネツィアの芸術に流れ込んだ、キリスト教の初期ルネサンス思潮の中での作品であった。

これらのモザイクは、創世記からアダムとイヴの誕生、カインとアベルの物語、ノアと大洪水の話、バベルの塔の建造、ヘブライ民族の始祖アブラハムと、ヤコブとラケルの子ヨゼフの物語を語っている。こうした作品群の第一群は、バジリカ寺院の最初の装飾である。
モザイク画聖マルコ寺院の4頭のブロンズ馬[左、サン・マルコ寺院入口のフレスコ画、サイトから借用。聖マルコの遺体をアレクサンドリアから持ち出す時の模様] 狭い急な階段を上ると馬のロッジェッタに着く。内部には何年も前から、修復された素晴らしい動物が保管されている。外には魂の抜けたそのコピーだけが置かれている。この四頭立て二輪馬車用の馬は、元々金箔で覆われていた。総督エンリーコ・ダンドロが第4次十字軍(1204年)の時の戦利品として、コンスタンティノープルから、その他の物と一緒に手に入れた物だった。

事実ビザンツから到来した、この寺院の区々の物は多岐に渡るが、建物全体を通してオリエントの面影が、寺院に連続的に手が加えられたにも拘わらず、瑕疵を受けることもなく、イスタンブールのサンタ・ソフィア教会との親族的類似性を明白に示している。

既に示唆したように、コルトの愛した第2の扉口の列柱からは、1400年代の帆船の航跡が、残念ながら寺院の遥か彼方へ姿を消した。寺院内部の最近の柵組のため、中央身廊左の小祭壇の赤い大理石の筋模様に潜む小悪魔の姿を見ることも同じように不可能である。

正に時の旅といえるこのモニュメントを後にして、素晴らしい全体像を観覧するために、長蛇の列もなく、雲一片とてなく天晴朗なれば、第一になすべきは、鐘楼に昇り、その高みからヴェネツィアを賞賛することである(更に魅力的展望は、直前の島サン・ジョルジョ島の鐘楼からのそれである)。

プラット(Pratt)はこの鐘楼が好きではなかった。これは1902年7月14日朝10時崩れ落ちたものを再建した物で、以前のスリムな物に比べて、ひどくずんぐりした物と思われたからである。その上これは総督宮殿のサン・マルコ広場への出入口である布告門の景観を疵付けるものであると。

総大司教側にとっては、その考え方の方が良かったかも知れない。こうしてプラット(Platt)はこの場所に鐘楼のスケッチを描いている。

この広場はセレニッスィマ共和国の最高の素晴らしさの表現であり、その権力の中枢には、総督宮殿あり、時計塔あり、2本の石柱あり、サンソヴィーノ図書館あり、鐘楼のロッジェッタあり、新・旧 の行政館がある。現実の配置は、舗装や若干の手直しは別にしても、寺院正面にあったサン・ジェミニアーノ教会を、1807年ナポレオンがいわゆるナポレオン翼建築のため、解体したことがあった。
サン・ジェミニアーノ教会2本の柱のあるピアツェッタ[左、サン・ジェミニアーノ教会(カナレット画)、右、聖マルコと聖テオドールスの円柱(ターナー画)] モーロ岸壁に向いた2本の巨大な石柱の間で死刑が執行されたが、興味深いのは、この石柱は12世紀オリエントから運ばれた物で、元々3本だった。しかし陸揚げ作業中、1本がラグーナに沈み、引き上げる術がなかったため、2本は長い間陸地に放置されていた。その後木造の、最初のリアルト橋の建造者ニコロ・バラッティエーリとかいう人物が、問題を解決し、現に見るように、直立させることが出来た。バラッティエーリはその返礼に、この2本の柱の間で、街のその他の地域では禁じられていた賭博商売を営業する権利を得た。

ドージェ(総督)の館については、それについて一章を設ける価値があるが、内部の秘められた箇所の訪問を予約して赴くことがお勧めである。そうすれば、この輝かしい政庁の権力がいかに機能していたか少しは明らかになる: 拷問部屋、ボッシュの絵画、カザノーヴァが逃亡した鉛の牢獄。

長さ54mの大評議会会場の天井を支える梁の興味深い構造は、アルセナーレの工人達が実現したものである。この天井の全構造図は、日常の感覚が、マジックのように天地逆に引っ繰り返って見えることである。事実それは、地は無の空間であり、天は構造物に満ち満ちて。

最も興味深い収集品や豊富なコレクション(コッレール美術館、サンソヴィーノ図書館、考古学博物館等々)について唯一のお勧めは、各時代の物が収集され、保管されて、その時代に再度帰還することが出来ることであって、決して皮相的で無用な訪問にしないように、ということである。

結局コルト・マルテーゼも朝方にはここに舞い戻り、サン・マルコ図書館内部で提供される迷宮のような研究の中に迷い込むことであった。ここでは特筆すべき事の中に、ドメニコ会士フランチェスコ・コロンナの手になる『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ』やラテン語と伊語の混交体という貴重な言葉で書かれた『夢の中の愛の闘い』や1400年代末、アルド・マヌーツィオに印刷製本された物があるということである。
[アルド・マヌーツィオや『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ』について、2011.06.11日のヴェネツィアの印刷・出版等で触れました]
カッフェ「フロリアーン」このエリア、この寺院の中で我々は限りない表現の海原で迷い、自分を見失うかも知れない。しかしコルト・マルテーゼが選んだ少し特殊な、我らの基準を携えて進もう。他のガイドは我らには関係ない。既にして斯くなされたのだ。こうして我々はカッフェ・フロリアーンのオリエンタルな居心地のいい部屋で寛げる。美味のコーヒー一杯でリフレッシュの一時を楽しもう。

あまり公的とも言えず、少々軽薄でもある場所へ向けて、我らが道を辿ろう。ヴェニエール家の行政官夫人のリドット(集会場)である1700年代のあの素晴らしい溜まり場である。最近仏人に修復され、アリアンス・フランセーズ(Alliance Francaise)の本拠地となった。 ……」 (続く)
  1. 2016/11/03(木) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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