イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(9)

(続き)
「こうしてサン・マルコ地区を後にして、時計塔の下を潜り、最初の道を右へサン・マルコ大通り(Calle Larga S. Marco)、更に左の2番目の道を曲がり、スペキエーリ通り(Cl. del Spechieri)へ。その通りに最近マエストロに愛されたレストランがある、ド・フォルニ(ai Do Forni)。

ピッシーナ・サン・ズリアーン通り(Piscina S. Zuriian)、ここに通じる次の角まで道を進むと、左に小さな軒下通り、ルカテッロ小広場(Ct. Lucatello)に通じるプリモ・ルカテッロ軒下通り(Stp. primo Lucatello)がある。その広場には中央に小さくて魅力的な井桁と外階段がある。軒下通り上の2階のリドット、即ちカジーノ・ヴェニエール直前のバレテーリ橋(P. del Bareteri)を越えよう。

背後には橋の前に魚の目治療師エウジェーニオ・ジェーネロの療所があった。彼は詩人で足の専門医であり、ヴェネツィアの戦闘ファッシの設立者であった。Hugo Prattの叔父もそうであった。

カジーノ・ヴェニエールは、賭博が主たる仕事であった楽しい寄合所に貴族達を歓待する、こうした私的場所が1700年代どのようなものであったかの貴重な証拠を代表している。

こうした風俗が最大に普及した時代、1797年それは136ヶ所にも及び、同じ一家で夫が一軒、妻が一軒持ち、と正に社会的に顕著な傾向となっていた。結局賭け事に対する情熱が全社会階層に広がり、その流行を抑えるどんな禁令も功を奏さなかった。

各人自分なりの賭け事や危険性に対する嗜好があった。賭博は油の染みのように広がった。ヴェネツィアのどんな街角、広場、橋、路、教会の隠れた場所では聖職者や僧侶と結託して、と、どこにもある、個人の家、カジーン(賭博場)、倉庫(magazeni)、居酒屋、商店、店(furatole)、床屋の倉庫室、娼婦の居間であらゆる種の賭博が歓迎された。

こうして10以上の賭博が蔓延していた: picchetto(トランプ32枚でするゲーム。ヴェ語picheto)、biribissi(数合わせのゲーム、ヴェ語biribis)、zecchinetta(トランプ賭博の一種)、cressiman(ヴェ語。二人で戦われるカードゲーム、カードは各二つに分けられる)、bazzica(タロットカード・ゲーム)、slipe slape(ヴェ語。同信会等、多数で遊ぶカードゲーム)、meneghella(同信会等、多数で遊ぶカードゲーム、メネゲーラの強い札は剣の2の札。ヴェ語meneghela)、camuffo(古いカードゲーム)、gile alla greca(ジュコーネ(giucone)と似たカードゲーム、ヴェ語giule/gile)、tresette(4人2組のカードゲーム。ヴェ語tressete)、ombre(西語。3人でするスペイン到来のゲーム、ヴェ語rocolo)、tric trac(伊国の双六のようなもの)、bassetta(ヴェネツィア式タロットカード・ゲーム、ヴェ語basseta)、faraone(カードの賭博、人数に制限はなく一人が銀行になる。ヴェ語faraon―zogar a faraonファラオンで勝負する)。この最後のものは賭博者の情熱に火を点けたし、ヨーロッパの最初の公的カジノであった、この輝かしき状況の時代のリドットは、最初の賭場だったのである。そこはサン・マルコ近くのヴァッラレッソ通り(Calle Vallaresso)にあった。
グアルディ『リドット』.『ヴェネツィアのリドット』賭場の胴元[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、中・右、ピエートロ・ロンギ)] セレニッスィマ共和国は1522年にロッテリーア(福引所)を作り、1638年リドット(賭博場のある休憩場)を許可した後、数世紀後、国の凋落傾向を知って、賭博の広がりから収入を増やそうとした。館内部は規則通りであるとはいえ、カーニヴァル・シーズン(当時6ヶ月続いた)は賭博が行われた。

胴元を務める人物は、貴族で鬘を被り、黒いトーガを纏い、仮面は身に着けていないが、客は逆に、正装している。我々は直ぐに想像出来るが、テーブルの周りにはあらゆる招待客が座っている、貴族、女衒、娼婦、外交官、高利貸し、他に誰あろう。今やヴェネツィアとカーニヴァルはヨーロッパの賭博と歓楽、欺瞞のシノニムになった。それ故、貴族達、冒険家、ペテン師達の各種のツアーのお気に入りの目的地となったのだった。

毎晩のように、全き幸運が瞬く間に懐に飛び込んだ。アルブレヒト・デューラーはそこで出会うヴェネツィア人と客について語っている、“……この地上で本当に悪意のある、嘘吐きで、不誠実な輩達”と。倫理的な衝動の中で共和国は1774年、こうした施設を閉鎖し、仮面の商人や旅籠屋の主の主張する各種の禁止保護令を立ち上げたが、この蔓延した熱狂を全く排除することは出来なかった。しかし雨後の筍のように増殖する個人のカジーンの内部に閉じ込めた。

これはロレンツォ・ダ・ポンテ、特にカザノーヴァのような人物には好まれたものである、カザノーヴァは彼の回想録の中で区々の場所やファラオーネ(faraon)で、成功を収めた賭場について記述している。
[賭博熱については、2014.02.19日のブログバウアー・グリュンバルトでも触れました。]

こうした賭け事やバッセッタ(basseta)について、オルテス師や経済学者チェーザレ・ベッカリーアのような啓蒙学者が胴元と客の間の勝ち負けの確率を分析している。ある点こうした賭け事に対する情熱は魔力の一つとして、他の物に向かうこともり、“ファラオーネ”は合衆国に移動し、“fara”の名前で、金採掘者の間で有り触れたものになった。

我々が訪れた、かの素晴らしきヴェニエールのリドットは17世紀の手付かずの魅力が保存されており、また3部屋の一つの部屋では角に置かれた戸棚が隠している秘密の通路は今や閉鎖されてしまたということは別にしても(そこからは玄関を通らず、出入りが出来る)、全ては同じように保存されているのである。床のタイルの下に隠された覗き穴が今でも残されている。そこから入館する階下の人を見張る事が出来る。

3部屋以外に、小サロンと一角の戸棚に隠された給仕用のワゴン通路で繋がる台所があり、そんな風に主人と使用人は分けられていた。 ……」 (続く)
[初めてヴェネツィアに行き、ゴルドーニの館を訪れた時、運河側のメインルームの床に覗き穴風の物があり、見下ろすと階下の運河からの玄関口が見下ろせ、ゴンドラで誰が訪れたか明確に分かるシステムになっている事を知りました。]
  1. 2016/11/10(木) 14:06:57|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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