イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(10)

(続き)
「この美しい17世紀の小さなボンボン入れのような場所を後にし、サン・マルコの方向、バラッテーリ(Bareteri)橋へ戻ろう。このメルチェリーア(Marzaria)通り、フーゴ・プラット(Hugo Pratt)(ヴェネツィアの友人達の古いグループをそう呼ぶ習慣があったのだが、McPratt司令官のhalabardiersに属していた一人であった)の少年時代の旧友ジルベルト・ファビアーノの宝石店(そこには楽しかった思い出、当時の紙不足を記録する、両側にインド人の最も初期のデッサンを満載した頁が貴重に保管されている)の傍を通ろう。
アルメーニ軒下通りかつてそこでは何でも目にすることが出来、欲しい物が何でも見付かったメルチェリーア通りを行こう。直ぐに右へ曲がり、フェラーリ(Ferali)橋を渡る。その後数歩で再び右にアルメーニ軒下通り(Sotoportego dei Almeni)がある。そこに1600年代の小さな宝石が潜んでいる。二つの十字架とアルメニア語の文字のある大扉。サンタ・クローチェ・デッリ・アルメーニの美しい小さな教会がここに隠れている証しである。前室には小さな墓地があり、穹窿内部には魅惑的な満天の星がある。

この扉が開く時に出会うのは非常に難しい。確かなのは、日曜朝11.15分アルメニア式典礼のミサが執り行われる時間。間違えないように、町の隠された美しさを見るのはミサが終わるのを待つ事。軒下通りを出て、ファッブリ通り(Cl. dei Fabbri)との交差点まで左へコロンネ埋立て通り(Rio Tara' delle Colonne)を行こう。服飾店の所で曲がり、再び右へ。ここからアルメニア教会の鐘楼を望むことが出来る。

道どん詰まりまで行くと、正に井桁の中でも唯一風変わりな、15世紀の井桁にぶつかる。籐の大きな蔓で作られた籠のようである。その特異性、しかし非常に美しく、ヴェネツィア警察の在所は知っている、更にこのグレゴリアーナ小広場の名も知るヴェネツィア人の大半も気付かないものである。
井桁サイレンの浮彫[左、グレゴリアーナ小広場の井桁、右、魚を手にするサイレン像] 路を進もう。辻の角の後、右の壁面に13世紀の美しい酒盃が幾つか嵌め込まれている。中でも本当に不思議な物は、サイレン(sirena)が魚を手にし、鳥の脚で、鶴の頭をした尾っぽの像である。

ファッブリ通りへ戻り、右へ曲がって四辻を越え、次の最初の右のサン・ガッロ通り(Cl. S. Gallo)へ折れる。そのまま右の通りを進み、トローン橋(Ponte Tron)を渡るとゴンドラ用の小さなオルセーオロ・ゴンドラ溜まり(Orseolo bacino)がその向こうに見えるオルセーオロ運河を越える。この風景は『ヴェネツィアの童話』の中にも描かれている。

左手の碑がここにコーヒー店主フランチェスコーニ(フロリアーン)の家があったと語っている。彼はこの家で亡くなったカノーヴァを自家に招いたのだった。橋を降りてそのままフレッツェリーア通り(Cl. Frezzeria)と交差する所まで進む。フレッツェリーアの名前はこの通りで矢(freccia――vicus sagittarius)を見ることが出来ることに由来している。

イギリス式の薬局1676番地の上階に織物商の家があり、そこにある期間バイロン卿が住んだ。彼は名もなき店主の美しい妻と愛の三角関係に陥った。この道は戦後陽気な女達の隠れ家、正確に言えば、成熟した若き婦人達の隠れ里となったのだった。
ダ・イーヴォ[ダ・イーヴォは運河から入店可能] 右へ曲がり、更に左へ曲がってフゼーリ通り(Ramo dei Fuseri)を進むと橋の手前、右にレストラン、ダ・イーヴォがあり、その直前はゲーテが泊まった館である。
[2010.09.04日のブログゲーテ(2)》でゲーテが宿泊した宿等について触れました。]

橋の向こう、丁度正反対の位置にレストラン、ダ・ゾルズィがある。かつてヴェネツィア人にとってこれは泡立った生クリームとホット・チョコレートの同義語だったが、現在はその場所は経営が変わってしまい、ヴェネツィア料理を作っている。先へ進み、左のコルテ・コッポ通り(Ramo di Corte Coppo)へ入り、同名の軒下通りを抜け、直ぐ右へ曲がると、別の軒下通りがあり、潜って行くとラ・ヴィーダ通り(Calle de la Vida o de le Locande)となる。道なりに左へ進むと次の道がマルテーゼ小広場(Corte del Maltese、現在はCorte Contarini del Bovolo)に通じる。

1800年代初期コンタリーニ館はアルノルド・マルセイユによって貸し出されたが、彼は“イル・マルテーゼ”という宿屋を開き、この小広場の古い名前はそこから来ている。しかし我々をここに引き付けるこの愛称の楽しい親密な響きは別にしても、我々が訪れる主たる理由は、この小さな小広場に隠れた、貴重な素晴らしい螺旋階段のためである。
コンタリーニ・ボーヴォロボーヴォロ(Bovolo螺旋の意)階段には、1400年代終わりのルネサンスの面影がある。しかしビザンティンの魅力的な影響もある。基礎部には小さな庭があり、11世紀ビザンティン風の幾つかの井桁のような建築的要素を備えた石の片塊が置かれている。

左へ曲がって、マニーン広場まで行こう。ここにはこの町で、恐ろしく酷い近代建築である銀行が建っている。その銀行が建っている場所に、アルド・マヌーツィオのアルディーナ・アカデミーがあった。マニーンの銅像の傍近く、今では無くなったサン・パテルニアーン教会や建物があったことを示す碑が、地面に埋め込まれている。ここは町の激しい変化を真面に受けた広場であった。 ……」 (続く)

[2007.11.22日のブログマニーン広場と2007.12.13日のブログサン・パテルニアーン埋立て通りを参照して下さい。マニーンやマヌーツィオの碑(写真も)について触れています。現在はどうか分かりませんが、以前そこに居た人にお願いしたところ、この階段を登らせて頂きました。私は高所恐怖症で、同伴の家族が代わりに登りましたが。]
  1. 2016/11/17(木) 00:06:07|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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