イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(11)

(続き)
「右の酷い近代建築(銀行)を過ぎ、広場を横断しよう。近くにElecta芸術出版があり、行止まりの路にはバール“Vitae(ヴィテ)”がある。かつては70年代の歴史的な場所“アル・ケルビーン”があったが。

教会の小広場へ、そしてヴェネツィアののらくら者達の神話的飲み屋“アル・ヴォルト”のあるカヴァッリ通り(Cl. Cavalli)へ進もう。そこにはPrattもしばしば訪れ、何か特別のワインを引っ掛けて、当然の如く近くのロッスィーニ劇場に向かう。老いた経営者カルボーンは、バッカスに捧げる、親しく飲み慣れた《果物の汁》の熱愛者だったが、各地方のワインをそれも念入りに選りすぐって1000種以上集めた。

当時美しい絵画としてのHugo Prattの『砂漠の蠍』という水彩画があった。今やこの絵はもはや見当たらない、所有者と多分正に特別の酒瓶と共に本土へ行ってしまった。しかし残りは全てそんな風に残って、この飲み屋はワインを愛するヴェネツィア人の心の中にあり続けている。

あなた方も楽しんだだろう。一杯のワインとチーズの塊等々の後は、ヴォルト軒下通り(Sotoportego del Volto)を通り、左の奥、更に右へ、ロッスィーニ映画館前の運河通りへ進もう。[ロッスィーニ映画館については、2012.11.17日のブログターナーで色々触れています]
旧ロッスィーニ劇場[ロッスィーニ劇場は現在スーパーマーケットに]  サン・ルーカ教会の前を通る。この教会には人生を思い通りに楽しく過ごしたピエートロ・アレティーノが埋葬されている。橋を渡って映画館前に出る。フェニーチェ劇場が出来る前、この劇場は町で最も重要な劇場だった。そして直ぐの軒下通りを潜り、最初を右へ行くと、大理石の浮彫のあるサンタンドレーア小広場(Corte S. Anndrea)に出る。古いレンガを敷き詰めた空間に大きく夾竹桃が成長して、中央に井桁がある。

更にテアートロ大通り(Salizada del Teatro)へ進むと、右のサン・ベネデット広場(Campo S. Beneto)に至り、1400年代のペーザロ館(P. Pesaro)がある。ここは大運河に建つ壮麗なペーザロ館に越す前の館で、アポッリネーアと通称されたオルフェーイ学会の在所で、音楽研究を深める団体だった(その後、アポッリネーア研究室と通称されてフェニーチェ劇場の研究室に越した)。

この住まいは1800年代末、グラナダからヴェネツィアに母親や姉妹とやって来たマリアーノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ[本名Maria' Fortuny i de Madrazo(1871.5.11~1949.5.3)カタルーニャ生れ]という素晴らしい多才の芸術家が手に入れた。この館の中庭の美しい階段を下りて、この興味津々の館を後にしよう。
フォルトゥーニ美術館中庭[フォルトゥーニ美術館、かつてはこの美しい中庭側が美術館入口でした]  右へ曲がり、直ぐに左のマンドラ埋立通り(Rio Tera' de la Mandola)へ。交差点まで行き、右へ行くのだが、その前にアッサシーニ埋立通り(Rio Tera' dei assassini)の入口に安い古本の素晴らし店ベルトーニ(Bertoni)があって、Prattもよく通ったことを思い起こそう。[ここで本2冊買った時、1冊は是非読んでもらいたいから進呈すると、1冊の本代だけ請求されたことがありました。]

アッサシーニ通りという名前は、昔、夜の闇の中で刺殺された可哀想な人の遺体が、朝方発見されるとかいうことがよくあったという事に由来する。そしてこうした暴行を思い止まらせ、闇の路を少しでも明るくしようと、当時小さな明りの点いた誓願の小さな祭壇が設置された。

1128年の布告によれば、政庁は犯罪者が自分の変装のために付ける、いわゆる“付け髭”を禁じた。ドイツ占領時代、この通りにはSSの将校がそんな理由から存在したのだった。“Assassini(殺し屋)”について、今日この名前の居酒屋がこの通りの奥にあるが、若者達の典型的な待ち合わせポイントであり、美味なワインが味わえる場所である。

サンタンジェロ広場へ向かって我らが道を進もう。橋の手前、右に行くと奇想天外な名前で呼ばれる、広場を回る通りがある。いわば法則のようなもの、“Calle va in Campo(道は広場へ通じる)”という通り名。

前の橋の脇にサント・ステーファノ修道院の中庭の大門があり、その上に聖アウグスティヌスと付き従う修道士達を彫った、非常に美しいポリクロミーの大理石の浮彫がある。

フラーティ橋(ponte dei Frati)を越え、フラーティ通りを進み、右へ曲がって直ぐ左の数段の石段を上がると、ノーヴォ・オ・デイ・モルティ小広場(Campiello Novo o dei Morti)に入る。実はここは古くは墓地であった。ナポレオン到来前は、死者は教会やそこに隣接した、どこにでも埋葬された。

更に進み、ボッテーゲ通り(Cl. Boteghe)を右へ行くと、左にエレガントな靴の浮彫がある。それはここにドイツの靴職人の家があったことを示しており、有名なサン・サムエーレの“靴職人(calegheri)”のことである。その浮彫はPrattの友人、イギリスの画家ハンフリー・ジョフリー(Humphry Geoffrey)のアート・ギャラリーである建物の上にある。[かつて靴職人は“El calegher(靴直し)”と呼び売りする連雀だったとマルチェッロ伯爵はTVで語っておられました。]

左へ曲がり、サン・サムエーレ大通り(Salizada S. Samuele)を進み、モチェニーゴ通り(Cl. Mocenigo)まで来ると、バイロン卿が住んだモチェニーゴ館へ通じる。そしてヴェロネーゼと通称されたパーオロ・カリアーリが住んだ家がある。
[旧モチェニーゴ館のアパートを借りて語学校に通学した時、この辺りはよく歩いたので懐かしいです。ヴェロネーゼの家の碑には《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimoro'/ lungamente in questa casa e vi/ mori' il XIX APRILE MDLXXXVIII.(ヴェネツィアの最高の画家パーオロ・ヴェロネーゼは、その後の世紀を変えるほどの大成功を収めたマエーストロだった。この家に住み続け、1588年4月19日ここで死んだ)》とありました。]

この地域のムネーゲ通り(Cl. Muneghe)にはかつて淫売宿が多く、その一帯は娼婦が溢れていたという。右へ行き、カロッツェ通り(Cl. Carozze)へ入り、どん詰まりの大運河まで行くと、展覧会にとっても重要である、グラッスィ館が聳えている。しかしより魅了されるのは、未だに手垢に染まることなく、我々の前に姿を現す、12世紀のサン・サムエーレの小さな鐘楼である。
カザノーヴァの碑教会をぐるりと回り、マリピエーロ大通り(Salizada da Malipiero)を行き、直ぐ右のマリピエーロ通りへ入る。ここでジャーコモ・カザノーヴァ(1725~1798)は生まれた。このLigne(人の行くべき道?)の王は書いた。《あらゆる事物事柄を愛し、欲した。全てを手に入れた後は、何も無しで済ますことが出来ることを学んだ。》 ……」 (続く)
[カザノーヴァについては、2009.07.04日のカザノーヴァ(1)で触れました。]
  1. 2016/11/24(木) 00:45:53|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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