イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(12)

(続き)
「この直ぐ前方の軒下通りまで進もう。1800年代末にも、1655年グリマーニ家によって開場されたサン・サムエーレ劇場があった。カルロ・ゴルドーニはそこでデビューした。右へ曲がりスフォルツァ公の小広場まで進もう。

そこにはキプロス島の女王の父マルコ・コルネールが始めた壮麗な館が建っていた筈である。バルトロメーオ・ボン設計図には長さ55m超にも及ぶ部屋が示され、総督宮殿の大評議会の間より大きかった。現実に大運河に唯一残るオリジナルの設計の基礎部の角の柱や浮出し飾りのある切り石積みの断片がある。ここにはオリエント芸術の興味深いコレクションがある。

マリーノ・ナーニ・モチェニーゴ伯はコーヒーやチョコレート、お茶の茶碗一式に特別の関心を抱いて、1700年代の磁器の収集を始めた。このためCicara伯(チカーラ=ヴェ語デミタスカップのこと)と愛称された。この収集家伯爵の死で妻のカテリーナ・ヴェッルーティは、義兄のルクセンブルク大使ユーグ・ル・ガレが、日本と極東滞在時に集めた東洋の芸術品のコレクションとこの素晴らしい収集を統合し、1962年カ・デル・ドゥーカ(ドゥーカ館)に小さな博物館を開いた。
[ナーニ・モチェニーゴ伯爵夫人はカルパッチョ料理誕生に関わりがあります。以下の、2012.11.03日のブログカルパッチョ(5)をご覧下さい。]

1513~14年ティツィアーノがここの大広間で総督宮殿のために大画布を制作準備したが、1574年と1577年の恐ろしい火災で、ヴェロネーゼとティントレット、ベッリーニの作品と共に灰燼に帰した、ということがあった。

引き返してテアートロ通り(Cl. Teatro)を行こう。直ぐの右の軒下通りへ曲がり、続く橋を越え、そのまま次の橋まで行くと、ヴェネツィアでも広く美しい広場の一つサント・ステーファノ広場(Campo S.Stefano)が開ける。足を止めることなく回って行くこと少々、取り囲まれた生活を楽しむべく、1杯のコーヒーで座る時間がやって来た。“パオリーン”こと、ハーゲン・ダッツのジェラート屋である。
パオリーントンマゼーオ広場中央にある銅像は、文学者で愛国者のニコロ・トンマゼーオである。銅像を見れば分かるように、像背後に積まれた本の山は皆が愛情を込めて、糞本(I cagalibri)と呼んでいる。

この周りにはモロズィーニ家からロレダーン家(現在ヴェーネト科学文学芸術協会の所在地)や素晴らしいピザーニ家まで貴族の館が建ち並んでいる。ピザーニ家はそのサロンに王侯貴族を招いた(この同じ家系の家はストラの田園に美しい迷路のある、有名な館を所持している)。1877年からピザーニ家はベネデット・マルチェッロ財団の音楽院の本拠地である。広場最奥にはバルバロ館やグッソーニ=カヴァッリ=フランケッティ館がある。
[ブレンタ川(運河)沿いのストラのヴィッラ・ピザーニに行った時、この有名な、2m以上もある黄楊が密生した生垣で作られた迷路に入り、中央のミネルヴァの塔までは行けました。復路は迷路に完全に翻弄され、パニクって、解放されるま10分以上は帰路で呪縛されていました。このピザーニ館や迷路(1722年建築家ジローラモ・フリンジメーリカにより)をガブリエーレ・ダンヌンツィオが作品『炎』の中で触れているそうです。]
ピザーニ迷路音楽院[左、ストラの迷路。右、ピザーニ広場のベネデット・マルチェッロ音楽院。写真はサイトから借用] 大運河の尖塔式のバルバロ館は、1800年代末、米国画家ジョン・シンガー・サージェントの家族ダニエル・サージェント・カーティス(ダニエル・サージェント・クルティス)の未亡人が手に入れ、ヴェネツィアの英語話者コミュニティ・センターとなった。中でも英国詩人ロバート・ブラウニング(後1899年カ・レッツォーニコで死去)や印象派画家エドガール・モネ夫妻、『アスパンの恋文』を書いた英国作家ヘンリー・ジェイムズらを招いた。

聖アウグスティヌス修道会隠修士修道院が隣にあるゴシックのサント・ステーファノ教会は、13世紀に建った。1325年には建て直され、1400年代半ば頃まで度々改築された。素晴らしい船底天井はアルセナーレ造船所の有名な船大工達の仕事を思い起こさせる。ここに集められた芸術作品を目にするにつけ、大祭壇の大理石の嵌め木細工的仕上がりを暫時鑑賞したいもの。
サント・ステーファノ広場サント・ステーファノ広場Antonio Visentini のサント・ステーファノ広場[左、カナレットのサント・ステーファノ教会と広場のクロッキー(ウインザー城蔵)、中、カナレットの甥ベルナルド・ベッロットのヴェドゥータ、右、ヴィゼンティーニの版画] 中庭(chiostro)では、ある期間若きカノーヴァが習作を重ね、オルペウスとエウリュディケーの彫刻を石膏で造形した。教会ではしばしばクラシック音楽のシリーズが催される。[私が初めてヴェネツィア室内合奏団(Interpreti veneziani)を聞いたのは、1994年この教会ででした。現在はこの広場一番大運河寄りのサン・ヴィターレ(S. Vidar)教会がメイン会場です。]

この広場で1802年2月22日(サンタ・マリーア・フォルモーザやサン・ポーロでのように)最後の闘牛(牛追い)が行われた。モロズィーニ館近くの観客用の仕切席が崩れ、多くの打撲傷や怪我の人が出た。そのためこうした催し物はこれを機に禁止となった。

夕方、ヴェネツィア人が一杯引っ掛けにやって来て広場が賑わうのは恒例である。特にかの有名なスプリッツ(spritz)を飲みに来る“食前酒の時間(l'apertivo―スプリッツ・タイム)”なのだ。即ち、炭酸水1/2、白ワインとカンパリかセレクト1/2、とお好みで。
[初めての語学学校通学で古モチェニーゴ館にアパートを借りた時、スプリッツ・コン・ビッテルを教わり、サント・ステーファノ教会前のバール“アンゴロ”で2ヶ月間、毎夕食前の一時、赤いスプリッツを楽しみました。カンパリ1/3、白ワイン1/3、炭酸水1/3の割合にレモン。毎夕顔を合わせる知合いも出来て、語学のために話し掛けて伊語を教えられたり。] 

“ハーゲン・ダーツ(Haagen Datz)”の右からスペツィエール通り(Cl. Spezier)に向かって、我らが道を進もう。路の右に小ぢんまりとした庭があり、prattの若き友人のクラシック音楽のCD屋さん“Nalesso”がある。左には町でも最上のお菓子屋さんの一つがある。」 (続く)
[このNalessoのCD屋さんで、1585年ヴェネツィアまでやって来た四天正遣欧使節歓迎のためにアンドレーア・ガブリエーリが作曲し、サン・マルコ寺院で使節の前で演奏された大ミサ曲『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』を探し、尋ねたのですが、その曲はまだCDになっていないのではないかとのことでした。現在はどうなのでしょうか? 2008.04.04日のブログ《天正遣欧使節(3)》でも触れました。]
  1. 2016/12/01(木) 00:02:53|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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