イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(13)

(続き)
「橋を渡って直ぐ左にアルバニア同信会館があり、ファサードに同信会の守護聖人の浅浮彫がある。聖マウリティウス、聖処女、聖ガッルスである。更にアルバニアのシュコデル(Scutari)の城を見詰めるマホメットがある。アルバニア人達は以前はスキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni―Cl.degli Albanesi)近くのサンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ(SS.Filippo e Giacomo)地区に住んだ。そしてサン・セヴェーロ教会に参集するようになったが、セレニッスィマの承認の下、1400年代末頃、この同信会館を造ることが出来た。
アルバニア人同信会館サン・マウリーツィオ教会[左、元アルバニア同信会館。右、サン・マウリーツィオ教会(現在無料の楽器博物館)。左直前にベッラヴィーテ館が見えている] この建物の直前はベッラヴィーテ館で、広場に向いたファサードはヴェロネーゼがフレスコ画を描いたが、長い間に今やその痕跡も残っていない。この建物にジョルジョ・バッフォが住んだ。」
[2009.07.04日のブログカザノーヴァ(1)も参考までにご覧下さい.。この広場で定期的に骨董市が開かれます。]

ここで、このガイドにあるジョルジョ・バッフォについての紹介を訳してみます。
《――特異の好色詩人ジョルジョ・バッフォ(1694~1768)は、ヴェネツィア語で沢山の詩を書いた。その詩は彼の死後に友人達により収集出版された(『ヴェネツィア貴族ジョルジョ・バッフォの詩』(1771)).。事実よく知られていて、カフェで人々に朗誦された。それを読む事は、1700年代の絵画やその他の作品と違って、ヴェネツィアのデカダンスの尺度というものを示すのである。

正にそうした理由でカザノーヴァは熱い愛情で自分の回想録の中で、繰り返し『父の親友であり、偉大な才能の持ち主で、スキャンダルに富んだ詩人であったが、同様にその手の人物の中では独特であり、私をパードヴァの下宿屋に送る事を決めた。だから私の人生は、彼の決定に負っているのである。』

バッフォはヴェネツィア上級裁判所法廷である四十人法廷の一員であり、“処女の如く話し、サテュロスの如く書く”人物として記憶されている。以前の版によれば、ペンブローク卿(Lord Pembroke)の編集により、コンスタンティノープルで印刷出版された第2版がより詳細なものであったという。

伊国では未だよく知られていないが、この再発見は1911年仏訳し、詩の収集を出版した、詩人であり評論家のギヨーム・アポリネールに負うているのである。『バッフォの全作品は、生きる事、彼の特異の世紀に生きる事、水陸両棲の町で、ヨーロッパの中でも湿った女陰のような町であるヴェネツィアで生きる事の喜びを表している。』

バッフォは自分の先祖の中でも、チェチーリア・ヴェニエールを賞賛した。ヴィオランテ・バッフォの娘である。彼女は父母とコルフ島への旅の途中、トルコ人に誘拐された。奴隷としてコンスタンティノープルに連れて来られ、美貌故にフマカドゥナの名前でスルタン・アムラート3世のお気に入りとなった。皇帝の子を14人産み、一人が彼の後継者マホメット3世となり、彼女を大スルタンの母位に押し上げた。

ハーレムに住む母親達の陰謀でアムラートとの関係で厄介事に巻き込まれた時、ヘブライの占い師の助言も得ながら秘薬や魔術を用いて(あらゆる手を尽くして)、一番のお気に入り(Gran Favorita)の位置を再度構築したのだった、と。 …――》

「サン・マウリーツィオ広場を過ぎザーグリ通り(Cl.Zaguri)を通って橋を越えると、フェルトリーナ小広場(Campiello della Feltrina)に至る。ここには古い店(Piazzesi)があって手動印刷機刷りの美しいカードを売っている。この古い店主は亡くなり、取り分け数年前から町中に同じような店が開店し、日本の古い技術マーブル刷りのカードを作る工房がある。

次の橋を越すと、サンタ・マリーア・デル・ジーリョ・オ・ゾベニーゴ広場(Campo S. Maria del Giglio o Zobenigo)に至る。ここに建築家ジュゼッペ・サルディに設計されたゴシックの教会がある。11世紀の先行建築に代わって、それは1678~83年の間に作られた。
サンタ・マリーア・デル・ジーリョ実際この建物はバルバロ家によって建てられ、この家族の海上と政治家としての栄光を称えるが、暗い不吉な大モニュメントを持つファサードとして現されている。色々の人物の中には大門上の中央に、“海の将軍”アントーニオ・バルバロの像が際立つ。

更に船、ガレー船、甲冑一式、基礎部には町や要塞の地図の浮彫がある。ザダル(Zara―クロアティア)、イラクリオン(Candia―クレタ島)、パードヴァ、ローマ、コルフ(Corfu`―ギリシアのケルキラ島)、スプリト(Spalato―クロアティア)の地図である。内部には聖具室に美術品としてペーテル・パウル・ルーベンスの『聖母子と幼児聖ヨハネ』[ヴェネツィアにある唯一のルーベンス]がある。

広場奥にはゴンドラのトラゲット乗り場脇に現在ホテルのグリッティ館がある。ヴェツラー男爵の屋敷となったことがあり、『ヴェニスの石』の著者J.ラスキンが1851~52年招かれ滞在した。 ……」 (続く)
  1. 2016/12/08(木) 00:12:20|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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