イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(14)

(続き)
「大運河を背にして、ピオヴァーン通り(Cl. Piovan)を通り、左へ曲がってフェニーチェ劇場裏の運河へ向かう。水路からのアクセスを希望する観客のゴンドラ用の入場口が開いている[現在は舞台装置等の搬入口]。美しいカレゲーリ小広場(Cpl. dei Calegheri)への捩じれ橋(p. Storto)を渡り、右へ行き、カオトルタ橋(p. Caotorta)の手前を右へ曲がり、短い運河通りから魅惑に富んだ運河の辻の上に架かるクリストーフォロ橋(p. Cristoforo)を渡越し、軒下通り(Sotoportego)を潜り抜け、サン・ファンティーン広場(C. S. Fantin)に通じるラ・フェニーチェ通り(Cl. de la Fenice)を進む。
焼失したフェニーチェ劇場正面焼失したフェニーチェ劇場の、現在の裏口フェニーチェ劇場[火災により外壁のみ残る劇場正面と裏口。右、現在の正面] ここには、町でも最も著名な劇場、あの伝説的なフェニーチェ[fenice=phoenix]劇場がかつて屹立していた[焼失]が、再び聳立した。2度も焼失したが、最初は1836年12月[1年で再建・再開場を果たしました]、2度目は1996年1月[再開場2003.12.14日]。その名前に応報して不死鳥の如く、かつてのデザイン通りに灰の中から甦った。
[フェニーチェ劇場の出火については、2009.03.07日のカーニヴァルマーリブラン劇場等で触れました。]

教会の脇にはサンタ・マリーア・ジュスティーツィアとサン・ジェローラモの同信会が入っているサン・ファンティーン同信会館がある。死刑囚の救済活動に身を捧げ、死刑に付き添って精神的な慰めを与え、“安らかな死の同信会”あるいは“ピカーイ(絞首刑になった人)同信会”とも呼ばれた。現在はヴェーネト高等研究機関であるヴェネツィア文学科学アカデミーの在所である。内部の色々の作品群の中には、ティツィアーノの弟子、多作であったヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネ(1544~1628)の絵画があり、ティツィアーノ工房で共に目を見張る程の作品を量産した。

バール=リストランテ=ピッツェリーア=タバッケリーア=ジョルナーリ(タバコや新聞の販売とレストランとピッツァ屋もするバール)の“アル・テアートロ”が、アテナイオン高等研究機関の傍にある。
[フェニーチェ劇場右隣のこのバールのキャップ(capo)は以前はアンジェロさんでしたが、定年退職され、現在はファービオさんがキャップです。街歩きでトイレタイムになると、ここのトイレは最高に奇麗だったのとファービオさんが作ってくれるスプリッツは最高の味でよく立ち寄りました。白ワインとカンパリが1/3、1/3で、最後に炭酸水を器械で注ぎ、オリーブの串刺しが添えられます。ちょっとアルコール分が強く、この町で随一の味と私の評価です。摘みにカップ一杯のポテトチップスが無料サービスで付いてきます。2011.11.19日のスプリッツ・コン・ビッテルもご参考までに。]

この広場を後にして、カフェティエール通り(Cl.Cafetier)へ向かおう。軒下通りの左奥に、かつてPrattと彼の黄金時代の友人が通った“パーペロ・ダンシング”があった。右側にはヴェネツィアでも歴史的な場所“アンティーコ・マルティーニ”がある。1700年代後半には有名となったカッフェで、この通りと次の橋の名Cafetier(=伊語caffettiere喫茶店主)はこのカッフェから来ている。橋の袂には“ヴィーノ・ヴィーノ”がある。そこは隣の“マルティーニ”と繋がっているので、ワイン・リストを良く研究してほしい。乾杯だ!

橋の向こう、サルトール・ダ・ヴェステ通り(Cl.del Sartor da Veste)へ向かうと、3月22日通り(via XXII marzo)へ出る(1848年オーストリア人を追い出したこの日を思い起こそう)。通り(calle)や小路(calletto)で出来たこの町で、大通り(via)という格別の格式の通りであり、麗しの道(strada)である。沢山の銀行や株式会社があり、右の奥にはCorto Malteseに愛された古い印刷工房もある。
拡張された3月22日大通りの碑「碑文―市民の願いにより、1880年この道は拡張された。市長ダンテ・ディ・セレーゴ・アッリギエーリ」  [3月22日通り[Calle Larga XXII Marzoとも]については、2007.11.22日のブログダニエーレ・マニーンもご参照下さい。]

右へ曲がって、橋とバロックの教会サン・モイゼにぶつかると、はっきりと対照的で、大きな箱型の機能的スタイルのホテル、バウアー・グリュンヴァルトがある。しかしそれは壮麗なサルーテ教会の真向いで、大運河に面した広い庭と心地よいバールがある、全く悪くない!
サン・モイゼ教会ホテル・バウアー[左、サン・モイゼ教会と右のホテル・バウアー、その庭からサルーテ教会を望む]  右の教会を後にして、大通りを行き、右のヴァッラレッソ通り(Cl.Vallaresso)まで進む。神話的通り! ヨーロッパ初の賭場、1700年代のリドットがあった。“人間は労すること無き労働を発明した。即ち、賭場である”(フリードリヒ・ニーチェ)。道半ば左に、14世紀には既に旅籠ルーナだったホテル・ルーナがある。その先にアッシェンスィオーネ教会が隣接して、テンプラーリ修道院があった。

このぐるぐる経巡った道案内の最後のご褒美は、“ハリーズ・バー”であり、帰宅のためのヴァポレット乗り場[以前はヴァッラレッソという名だったがサン・マルコに変更]の直前、通り最奥にある。ここにはトルーマン・カポーティがそう呼んだ“銀の弾丸(Silver Bullet)”、辛口で氷を入れた、神話的な“マーティニー”、素晴らしいカクテルである“ベッリーニ”(この店のマスターの発明)で、夙に有名である。

皆が知っている“マーティニー・カクテル”は簡単で、イギリスのジンとドライ・マーティニーが三角形のグラスに調合される。マーティニーの量は好みによる。強くて辛口の好きな人は、マーティニーを更に加えたり、ワインで割ってシェイクしたり、マーティニーを止めて凍ったジンを入れたり、とか。それはヘミングウェイ方式が正しい。彼は言っている。冷やしたグラスに凍ったジンを注ぐ。数分マーティニー瓶の側に置いておいてから、飲む。これが胃袋に銀の如く突き刺さる真の"Silver Bullet"である。

ジュゼッペ・チプリアーニがここを開店し、その成功の処方箋は、贅沢と単純をいかに結び付けるかであった。『河を渡って木立の中へ』の場面設定のいくつかにここも利用したアーネスト・ヘミングウェイの友達でもあった。
[ヘミングウェイについては、2009.08.22日のヘミングウェイで触れました。]
ハリーズ・バー[ハリーズ・バール、サイトから借用] しかしここから更に甥達に書いた、短いお話を思い出したい。《優しいライオン》である。父親に会いたくてアフリカから戻ってきた翼のあるライオンの話である。父はサン・マルコ広場の円柱の上に居るのである。そして向かったのはハリーズ・バーのチプリアーニに会うためだった。」 (この章、終り)
  1. 2016/12/15(木) 00:02:27|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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