イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

日本の旅(2)

平泉は世界遺産の選から落ちました。土地の人は悔しかったことでしょう。選ばれた石見銀山では、そのため沢山の人がやって来て、静かな生活が破壊されたと言う人もいます。

世界遺産の町ヴェネツィアに行くようになって、知り合った鞄屋の小父さんは、観光客があまりにも多過ぎて生活者として大変迷惑していると言っていました。あの時から10年も経ち、私達観光客の数は一層増え続けています。しかしヴェネツィアに残るメイン産業は観光業だけです。

金色堂は3度目の対面ですが、やっぱり美麗な建物です。奥州藤原氏初代清衡公が1124年に造営しましたが、同じく黄金の寺院と呼ばれるヴェネツィアのサン・マルコ寺院は、総督ドメーニコ・コンタリーニ(1043~70在位)により、現在目にする聖堂が建立されました。

富める人達が《天国のイメージを表現するには、やはり黄金に尽きる》のでしょうか。金色堂の何百倍もの大きさと思われるサン・マルコ寺院を見るにつけ、ヴェネツィア共和国の富の蓄積がいかに莫大であったかが察せられます。

平泉の金色堂の話が、大きく膨れ上がり、中国にも伝えられ、元のフビライ・ハーンに仕えていたマルコ・ポーロの耳に入り、彼が日本を黄金の国 Cipango として世界に紹介した話は、日本人なら誰でも知っていることです。日本について書き残したイタリア人第1号というより、ヨーロッパ人第1号の人物です。

クロアツィアの資料を見ると、コールチェラ島(伊語Curzola)にポーロ家のオリジンがあり、マルコが生まれ、「子供の頃、対岸の山並みを眺めて夢想に耽った家」が写真と共に紹介されています[イタリア人は愚説と言っています]。
『クロアチア』『クロアチア』ヴェネツィアのスキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)の《スキアヴォーニ》とは、クロアツィア人のことを差し、マルコの祖父がコールチェラ島からヴェネツィアに到来し、最初に住み着いたのは同国人の多いこの地区だったのではないでしょうか。マルコが亡くなった時、スキアヴォーニ海岸通り北のサン・ロレンツォ教会に葬られたことからも、そのように類推されます。マルコもその地区で育ち、ヴェネツィア語を喋るようになったのでしょう。

現在マルコの家として碑が掲げられているマーリブラン劇場裏の、サン・リーオ運河(Rio de S.Lio)前の建物は、『ヴェネツィアの冒険家――マルコ・ポーロ伝』(ヘンリー・H・ハート著、幸田礼雅訳、新評論社、1994年11月31日)が述べているように、マルコがジェーノヴァの牢獄に囚われていた時、ルスティケッロ(Rustichello da Pisa)の助けで『東方見聞録』を書いていた頃、ポーロ家が手に入れた、としているような事情だったのでしょう。
マルコ・ポーロの家[近年修復されたマルコの家壁面] いずれにしても、彼の書いた『東方見聞録(Il Milion)』の日本の黄金伝説を信じて、ジェーノヴァ人クリストーフォロ・コロンボ(羅典式クリストファー・コロンブス)はその本を携えて、1492年サンタ・マリア号で日本に向かって大西洋に船出したのです。
  1. 2008/10/12(日) 00:14:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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