イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

コッチーナ・フォスカリーニ(Coccina Foscarini)館(1)

ペーザロ館の右隣はコッチーナ・フォスカリーニ館です。E.W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を書いています。
コッチーナ・フォスカリーニ館「リオーダ運河との合流点に位置するこの館は、16世紀半ば頃まで遡ることが出来、左に増築部が追加されて、非対称のファサードが大運河に開けているが、玄関口大門とその両脇に一面窓を置いた、上にあるセルリアーナ式窓で設計された中央部が濃密な開口部となる、際立った仕上がりとなっている。

コリント式の長い軒持送りは窓前部の窓台を支え、更に2階の窓やその他の四角形の窓も突き出したアーチのキアーヴェが支えている。

コッチーナ家に建造されたが、その後他の一家の手に渡り、結局フィレンツェ出身のトマーゾ・ジュンタの手に移り、彼はニコロとレニエール・フォスカリーニ兄弟に二人の娘を嫁がせ、この館を含めた全財産をこの一家に残した。素晴らしい中庭の壁面はジャン・バッティスタ・ゼロッティによって描かれた。1760年年代記作家が言っている、窓に座ってリュートを弾く美しい姿も見られる、と。

色大理石を豊富に使用した、洗練された建築の価値とその使用量の大きな事から、館は幾度も、その中にはデンマーク国王フレゼリク・クリスチャン(Federico Cristiano)4世もあったが、著名な共和国への訪問者を招いた。その名誉で、1709年サン・マルコ財務官セバスティアーノ・フォスカリーニはその豪華さで歴史に残る、特別の舞踏会を催した。この世紀においても、一家はいかなる声望と威信を得たことかを証明している。1755年、館はジョヴァネッリによって貸し出された。

年代記作者はフォスカリーニ家は867年、ヴェネツィアに定住したと語っている。レヴァントから巨大な利益を得た。その一家のメンバーには有能な政治家、戦士、文学者を数える。その有名な図書館は、19世紀一家の消滅と共に消えてしまった。

輝かしい外交官アントーニオ(1570~1622)の運命は、悲しい事ではあったが、有名な事件であった。彼は長い間、フランスとイギリスの外交官であった。その地で、高い能力故、この二つの国の貴族としてのシンボルを自分の紋章に付け加えることを許されていた。しかしそれは政治的緊張感が高まった期間のことであった。

スペインは、殆どが外国に隷従するイタリアにあって、用心深く、慎重で、誇り高く独立を謳歌し、あらゆる手段で自由を守るこの小さな共和国に目を付けていた。1618年共和国は、偶然にもスペインのオスーナ公によって仕組まれた陰謀をやっと押さえこんだところで、総督宮殿で関係者を大評議会の名によって絞首刑にさせるつもりだった。そのためフォスカリーニの一人の部下が、ある知られた館での外国人の会合に主人がこっそり赴いたと告発した時、勿論のこと彼の逮捕が命じられた。

しかし厳しく素早い尋問の後、彼は無実を証明された。フォスカリーニは出獄し、告発者は国外追放になった。しかし事件はそれで終わった訳ではなかった。……」 (続く) 
  1. 2017/01/05(木) 00:04:45|
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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