イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(19)

(続き)
「左の素晴らしいファサードは、サン・マルコ大同信会館のものである。現在は市民病院である。
[連れ合いは語学学校通学時代、突然目が充血して真っ赤になり、ここで色々診察やら検査をして貰ったことがありました。結局何が原因だったか、分からず仕舞いに終わったのですが、ヴェネツィアに滞在する旅行者は無料だということで、あり難いことでした。面白かったのは、院内にはバールがあって、ワインも楽しめるということで、日本とは丸で発想が違っています。]

総督ニコロ・マルチェッロのモニュメントも総督アンドレーア・ヴェンドラミーンのドキュメント(1493年)同様に、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房が息子トゥッリオの協力もあって製作した作品である。

ピエートロ・ロンバルドと二人の息子トゥッリオとアントーニオの建築で、建築家のGiov. di Ant. Buora(オステンソ生まれのジョヴァンニ・ブオーラ・ディ・アントーニオ―1450~1513)の協力を得た。その後上部の改装ではマーウロ・コドゥッチ、後背部の増築ではヤーコポ・サンソヴィーノの手が入った。

多色大理石や遠近法を思わす浅浮彫の手業は大いに称賛され、入口の側柱のだきに近付いてみると、1400年代より後の物と思われるが、帆船を引っ掻いて描いた跡がある。それは詳しく言えばサン・マルコ寺院の第2大門の柱に描かれて見ることが出来るものであり、コルト・マルテーゼが非常に愛したもので、親しい人には必ず伝えていた。

(残念ながらこれらの引っ掻き絵は、現在では修復工事、もう少しラディカルに言えば、市の浄化作業の中で殆ど全て姿を消した。石という物の見方、また扱い方というものは何時見直しが始まるのだろうか)。

隣の壮麗な教会[サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会、ヴェ語ではサン・ザニポーロ教会]はドメニコ会士に属しており、1430年に献堂された。しかし約200年もの長きに渡って、僧達は御勤めをしてきた。ゴシック式とルネサンス式の間の1400年代建造の入口の大門は、その堂々たるファサードが完成にまで至らなかったということを告げている。使用されている大柱はトルチェッロ島から持ってきたもので、そちらは今は蛻の殻である。

外部には、9世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の盃と棺(1249年の総督ジャーコモ・ティエーポロと1275年の息子の総督ロレンツォ・ティエーポロの)があり、教会に入堂するというよりは、恰も大霊廟に入廟する感がある。ここには総督や優れた人達を祀る厚葬の壮麗なドキュメントがある。ピエートロ・ロンバルドの傑作は、多分総督ピエートロ・モチェニーゴ(1476年)のドキュメントであろう。しかしマルカントーニオ・ブラガディーンの名誉ある、素晴らしいドキュメントも見ることが出来る。
[マルカントーニオ・ブラガディーンについては、2016.06.23日のブログブラガディーンをご参照下さい。]

聖ウィンケンティウスに奉献された政治的なるものは、最初ヴィヴァリーニに、その後ベッリーニの作と同定されたが、全作品がリストアップされるまで長く掛かった。ここにある葬送の作品群は結局、セレニッスィマの眠れる歴史だということである。聖カテリーナ・ダ・シエーナの足下の少々不安になる聖遺物の事を思い出してみよう。

この格別の建築物の、素晴らしい多色のステンドグラスの向こうにあるのは、括目に値するヴェッロッキオのバルトロメーオ・コッレオーニの銅像という奇跡のような作品を、恰も我々のために準備して、思い出させようとするかのように広場中央に騎馬像があるということである。ヘルマン、ヘッセは彼の旅ノートの中で、町の繊細で音楽的な美と対照的な尊大な美というものについて語っている。
[H.ヘッセについては2014.02.05日のヘルマン・ヘッセ(1~3)をご参照下さい。] 

この素晴らしい馬の鋳造はマドンナ・デッロルト教会近くのある小広場で、アレッサンドロ・レオパルディの監督の下、行われたが、その小広場はそれ以後、コルテ・デル・カヴァッロ(馬小広場)と呼ばれることになった。この動物の乗馬利用が1500年頃殆ど姿を消したことに触れるのは楽しいことである。もっと言えばヴェネツィア人の馬の乗り手を嘲笑う機知ある詩句が存在するのである(この町の車の運転手に対しても同じようにそれがある)。
[修道女の車とヴェネツィア・ナンバーの車には、若葉マークの車のように近付くなと言われているそうです。]
コッレオーニコッレオーニはヴェネツィアが雇ったベルガモ人傭兵隊長だった。死に際して、多額の遺産を遺し、それ故彼はサン・マルコ広場に銅像が建てられることを望んだ。幸運な事にその意志は聞き届けられず、この広場が選ばれた。セレニッスィマはフィレンツェ人彫刻家アンドレーア・ヴェッロッキオに委託した。彼は型と蝋を用意したが、1428年突然の死に襲われ、製作半ばに終わった。その時点でヴェネツィア人鋳造家アレッサンドロ・レオパルディが後任となって仕事を終わらせ、非情に美しい台石を仕上げた。

この広場の魅力を楽しませようと、この広場にはずらりカッフェが並んでいて、我々に一休みするよう招いている。……」(20に続く)
  1. 2017/04/20(木) 00:07:01|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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