イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: Ca’ Correr(カ・コッレール)他

トルコ人商館を右へ進み、サッカルド館を過ぎると、コッレール館です。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館を次のように述べています。
カ・コッレール「1600年代の簡素で倹しい建築で、長方形のペアの窓が、玄関大門と上の露台付きのアーチの窓の脇に置かれている。コッレール家は非常に古い家柄で、既に9世紀には共和国政府の重職に就いていた。1297年の黄金文書に記載されており、そこから高位聖職者が輩出し、その中にはグレゴリウス13世(1406~09)となったアンジェロがいる。
[彼には苦行僧の面影が強かったそうです。この記述には間違いがあり、アンジェロ・コッレールはグレゴリウス12世となり、在位1406~1415年で、教会大分裂の混乱期の教皇でした。グレゴリウス13世(1572~85)は、天正遣欧少年使節に謁見し、ユリウス暦を廃し、グレゴリウス暦を採用したことで特に有名です]

彼は外交的才能が豊かであったが、総督としての能力はなかった。ヴェネツィア人は生来の用心深さと警戒心から、教会にべったり傾いた一家に属する人間を総督として選ぶようなことは先ずしなかった。譬え無関係の立場を維持する決意が表明されても、一人の貴族が宗教生活を選ぶなら、そのような人物は直ぐに元老院から追放されるし、高位聖職者の職務を引き受ける前に、ヴェネツィア人としては政庁の承諾を得る必要があったのだ。
[彼は1406年11月30日教皇に選出され、1415年教会の安定を願ってリーミニに隠棲、1417年8月18日レカナーティで亡くなりました。]

この館でテオドーロ・コッレールが1750年12月12日に生れた。彼は1830年現在サン・マルコ広場の新行政館にある、あの素晴らしい美術館を設立した。」

更にボーイア館(Boia=死刑執行人)等を過ぎて、ジョヴァネッリ館となります。『大運河』(1993)の記述は下のようです。
[かつてアパートを借りたテースタ通り、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りから北へ入り、直ぐ左の角の6216番地の建物壁面に大きな顔の像が嵌め込まれており、1400年代死刑執行人が住んでいたと言われています。当時その像の口に、死刑になった人についてのコメントが挿し込まれたものだ、とか。このボーイア館にもそんな話があるのでしょう。]
ジョヴァネッリ館「恐らく15世紀半ばに遡る、中央に美しい四連窓があるゴシック建築である。オリジンはフォスカリーニ家で、ジョヴァネッリ家が1700年代、後を継いだ。現在は国鉄の事務所が入っている。ジョヴァネッリ家はハンガリーで鉱山業を営み裕福になった、ベルガモ出身の一族である。その功績で貴族に叙された。

その後ヴェネツィアに到来し、1668年の黄金文書に記載された。“お金”で貴族になったのである。共和国には3人の著名なサン・マルコ財務官を送った。」

そしてサン・ザン・デゴラ運河やリッツォーリ館等を越して行きますと、マルチェッロ小館となります。[サン・ザン・デゴラ(S.Zan Degorà=伊語San Giovanni Decollato(サロメによって首を刎ねられた聖ヨハネの意)教会が奥にあります]。『大運河』(1993)は次のように言っています。
マルチェッロ小館「ノービレ階(主人達が使用する階)が唯一つの小さな建物である。その階は中央のセルリアーナ式一面窓に楣式(まぐさ)構造の軒蛇腹が内接してアーチ枠で支える一面窓が両脇に置かれている。17世紀の建物では普通の事であるが、建築はその世紀半ばに始まった。

マルチェッロ家は栄えある古代ローマ起源の、同名の一族である。一家からは2人の総督が出ている。第2代総督テガッリアーノ(717~726)であり、初代・2代2人の内のこの2番目は、ヴェネツィアがビザンティンから政治的に自由になる前、バシレウス皇帝の是認を受けていた。そしてニコロ(1473~74)である。

しかしこの一家がヴェネツィアに輩出した数多い著名な将軍や政治家の中で、その名が燦然と光り輝くのは2人の兄弟音楽家の栄光故である。アレッサンドロ(1684~1750)と更に有名なベネデット(1686~1739)である。

ベネデットはマッダレーナ運河のマルチェッロ館で生まれた。いかなる貴族であったか、ベネデットの生活は共和国の政治に向けられていた。事実彼は重要な職務を熟した。ポーラ(スロヴェニアのPula)の施政長官、そして四十人委員会の仕事、それ故音楽は彼の単なる趣味(情熱)だった。

誇りの中に彼を駆り立て、彼を暗中模索から引き摺り出したのは、父親だった。ある日、既にヴァイオリンの名手だったアレッサンドロがお客達の前で演奏し終わった後、父がベネデットに言った。「お前だって、楽器の収集家ぐらいにはなれるよ」と。

この時以来、この若者は兄に劣らぬ姿を示したのだった。複雑にして、相矛盾する楽曲、生き生きとしてファンタジックな想像力でありながら、内向的でメランコリックな着想、彼はいくつかの作品、今日でも評価され演奏されるオーケストレーションされた楽曲や称賛さるべき詩編歌を書いた。

彼は鋭く、辛辣な評論家としても登場する。彼は芸術的霊感と呼べるに値するやり方で恋をした。ある夜、窓辺を近所の人数人が乗った船が通りかかった。その中に素晴らしい声の娘がいた。ベネデットにはその音楽は、自分の目指すものと同じと思えた。そこで下へ降りて、ゴンドラの人々と合流し、歌手を知った。彼女をレッスンし、結婚することになる。

ある日、相当後の事だが、教会にいた時、墓石が倒れ、彼は膝から穴に倒れ込んだ。起き上がったが、彼の少々特異な性格から、この事件が強迫観念になり、言うに言えない警告となってしまった。このため音楽を捨て、宗教書に没頭するようになった。53歳で亡くなったが、その時ブレッシャの財務官で、青年時代の病が悪化したのだった。

彼の遺書は相続人や子孫に音楽に携わることを禁じている。」
[マルチェッロについては、2008.12.27日のサンタンジェロ劇場や2014.08.14日のマルチェッロ館等、色々触れてきました。Youtubeにマルチェッロの有名なオーボエ協奏曲があります。この作品は現在兄アレッサンドロ作と同定されているそうです。]
  1. 2017/06/08(木) 00:05:46|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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