イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: Palazzo Zen、 P.Corner等(ゼーン館、コルネール館)

マルチェッロ館を過ぎ、更に右に進みますと、ゼーン(ゼーノ)館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように教えてくれます。

「ここには1849年のオーストリア軍の砲撃で破壊された古い建物が建っていた。その後、拡張され、再建された。建物は非常に簡素で入口大門とは際立って、上中央部の脇に置かれた長方形の窓がある。

ゼーン家は古い家柄で現在も存続し、著名な人物を輩出し、総督一名も出した。レニエーロ(1253~68)で、彼はレヴァントでジェーノヴァとの商業戦争を不誠実な行為として終りにしようと決め、敵対する相手に最初の戦いを開始した。
ゼン館海軍大司令官として、ヴェットール・ピザーニ以外にカルロ・ゼーンがいた。彼はある嵐の夜、自分の配下とヴェネツィア海軍の援助を得に駆け付けた。そして敗退するまで作戦を指揮し続けた。その時の事である、海兵達が気付いたのは。彼が咽喉に突き刺さった矢を、荒々しく引き抜いたので正に出血のあまり窒息死しかねない状況だったのである。

ヴェネツィアがジェーノヴァとの平和協定を結ぶために、傷が癒えて、栄光に包まれた彼を派遣して彼を称えた。続いて、彼は英国と仏国の外交使節となった。最後にまた、今度はテッラフェルマ(本土)でのパードヴァとの戦争に送られた。

しかしいかなる理由で、突如裏切りの罪で投獄されたのか分明でない。2年後自由の身になったが、哀れゼーンは輝かしい履歴にも拘わらず、寂しく引退し、我が家で生活することも拒絶された。

彼の死に際して、ヴェネツィアは彼の事を思い出したのである。彼を死装束に着替えさせた時、30にも余る傷で彼が苦しめられた瘢痕の多くは確かに酷いもので、彼の傍で戦った者達も気付かないものであった。人々は死後になってようやく、彼の偉大さに敬意を払い、葬列に加わったのだった。」

ゼーン館を過ぎ、更に右、2軒先に、ドナ・バルビ館があります。エレオドーリの『大運河』(1993)は次のように言っています。
コルネール館「17世紀の大きな建物で、非常に古い構造を利用して建てられたもの。ファサードの開口部である窓の配置が、普通でないことを示している。それぞれの階の窓は、右の四連窓から左端の一面窓へと、減少数でグループ化して配置されている。今日、教育監督局の所在地である。」

更に右の20世紀住宅の先に、コルネール小館がある。やはり『大運河』(1993)の記述に従います。

「16世紀後半の建物である。ルネサンス初期の優雅さと軽やかさを持っている。ファサードは非対称で、開口部は左に集中している。コルネール家、あるいはコルナーロ家は古い四福音史家(or福音書記者)家族の一家で、ヴェネツィアを立ち上げた基の家族である。非常に重要な一家で、共和国の生活には多大の影響を与えたのであり、大運河に建つ壮麗な建物の多くは、この名前と繋がっている。

[四福音史家家とはマタイ(Matteo)、マルコ(Marco)、ルカ(Luca)、ヨハネ(Giovanni)を称する、ジュスティニアーン、コルネール、ブラガディーン、ベンボの4家。因みに十二使徒、ペテロ(Pietro)、ゼベダイの子ヤコブ(Giacomo di Zebedeo)、ヨハネ(Giovanni)、アンデレ(Andrea)、ピリポ(Filippo)、ヤコブ(Giacomo)、トマス(Tommaso)、マタイ(Matteo)、シモン(Simone)、バルトロマイ(Bartolomeo)、タダイ(Taddeo)、ユダ(後マッティアMattiaに変更)を称する家は、コンタリーニ、ティエーポロ、モロズィーニ、ミキエール、バドエール、サヌード、グラデニーゴ=ドルフィーン、メンモ、ヴァリエール、ダンドロ、ポラーニ、バロッツィの12家。金色の長いストーラ(stola頸垂帯)を肩から膝まで垂らし、サン・マルコの騎士と世襲で称する権利を有する、騎士勲位を持つヴェネツィア三大名家は、コンタリーニ、クェリーニ、モロズィーニ。コルネール家はこのコンタリーニ家から出た家だそうです。]

1300年代コルネール家は、驚異的な財産を獲得した。スィニョリーア政庁は2人の兄弟にレヴァントで大々的に事業を遂行し、結婚すれば、“妻達が少しはお金を使う手助けをしてくれるから、そうするようにと勧めた”。

4人の総督を輩出した。その一人、やる気のなかったジョヴァンニ(1625~29)は、重い任務から遁れようとした。しかし共和国の財産のために、彼の肉体的精神的状態がそれに堪え得るなら、権力の座を行使するようにきっぱり要求された。傭兵隊長に戦場から退却するのか、お前は?ということである。哀れジョヴァンニはその暗に仄めかされた恫喝を悟って、総督の座に登ることを諦めたのだった。

しかしこの一家の名前が知られていたことは、譬え著名という事でないにしても、それはカテリーナ(1454~1510)の名前で明確である。コルネール家は塩とキプロス島での砂糖農園の専売権を得ていた。政庁の委員会に、島の為政者ルズィニャン家にたっぷりと財政援助をしており、ピスコピアの領地を与えられていた。

それ故驚くには当たらないのだが、17歳のカテリーナがジャック・ルズィニャン(Jacopo Lusignano)王に嫁いだのである。更に総督トローンは、この結び付きの月下氷人として彼女を“共和国のお気に入り娘“と呼ばせ、この結婚式に政治的お墨付きを与え、将来におけるヴェネツィアの優位性の基をキプロス島に築き上げた。

1年後ジャック王が没し、続いてカテリーナの産んだ息子が父の後を追った。豊穣であり、戦略的土地でもあるキプロス島での支配力を強めることを決めていたヴェネツィアが圧力を掛けたが、カテリーナは退位するつもりはなかった。

これはヴェネツィアの長い歴史の中でも、唯一の事であるが、一人の貴族が元老院の命令に従うことを拒絶した。筋から言ってもそれに従うことは、外れていたのだから、政庁は狡猾な策略を弄したということ。結局最終的には、強硬手段だった。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』[左、ティツィアーノ画『カテリーナ像』、中、アーゾロのガイド、右、ベッリーニ画『カテリーナ像』]  それは1488年のある日、フランチェスコ・プリウーリ率いる武装した艦隊がファマグスタ(伊語Famagosta)の沖合に現れた。使者が女王にトルコ軍が島を攻撃する準備をしていると告げた。カテリーナはヴェネツィア生まれではなかった。他に方策がないと知り、自分の運命に従った。ヴェネツィアに威風堂々と戻され、彼女はクッションに王位の笏と王冠を置き、総督に渡し、アーゾロの地に引退した。そこは彼女に与えられたものであり、芸術家や文学者に囲まれて生活した。

総督コルネールに関する興味深い記述がある。ヴェネツィアでは、鬘のモードはコッラルト(Collalto)の地の誰かがフランスから持ち帰ったものだった。1668年十人委員会は、この風習に対する通達を出した。しかし当時から、各種意見や保守主義者の不平不満があったが、鬘は抑えようもなく広まっていった。ある歴史家はこんな風に嘆いている。“…1500人の鬘…作法を行使する時、彼らは信用され、部屋のドアが開けられる。そして婦人方や乙女達の奥まった深窓の扉も開けられる。彼らは同様に、厚顔無恥のキューピッドの恋の使者であり、善意は見てくれだけの破廉恥な女衒なのである。”

鬘を被る全ての人に税金を課した1701年の通達にも拘わらず、それを身に付けた最初の総督は、1709年のジョヴァンニ・コルネールであり、最後の貴族は1757年に亡くなったアントーニオ・コルネールであった。」

[カテリーナ・コルネールについては、2013.03.23日からカテリーナ・コルナーロ(1~3)で触れました。]
  1. 2017/06/15(木) 00:03:44|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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