イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(1)

以前2011.06.04日~のブログアルド・マヌーツィオ(1~4)でヴェネツィアの印刷・出版について触れました。その当時の歴史的事実を元に、当時の出版文化をフィクシャスに描いた一種の小説というか、ドキュメントがあります。ラウラ・レプリ著『書物の夢、印刷の旅――ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(柱本元彦訳、青土社、2014年12月10日)です。
書物の夢、印刷の旅「古典の発見――まず第一にギリシア、そして次にローマの文学――を目的とする明確な企画が、その他無数の印刷者からアルドを隔てていた。そして極めて洗練された入念な装幀によって、またたくまに押しも押されもしない最高の印刷者となったのである。さらに、イタリック体の導入、小型判、頁番号、句読点法、出版の文化的意図を宣言する前書きなど、印刷物に堂々とした存在感を与えるこうしたすべてのことが、普及の促進につながった。マヌーツィオは、どのような人々が読者になるのかを心得ていたのだ。

それだけではない。おのれの企画に活力を注入するため、アルドはヴェネツィアの文人たち、互いに友人同士でもある彼らを身辺に集めていた。ラムーシオ自身もそのひとりであったし、いまや群れをなすイタリア人文主義者たちの先頭に立つピエトロ・ベンボ、博識のアンドレア・ナヴァジェーロなど、他にも大勢いた。印刷待ちの書物の監修を毎回のように彼らに任せ、その意見には進んで耳を傾けたものだ。

ほどなくしてアルドのカリスマ性は誰もが認めるところとなった。ロッテルダムのエラスムスでさえ、1508年、ようやくにして辿り着いたボローニャ大学――古典古代の文化を訪ね歩く彼のイタリア旅行の最も重要な滞在地――から、純粋に尊敬の思いをこめて手紙をしたため、しばらく前にパリで印刷された彼の作品、『アダジア』の出版をアルドに請うたのであった。

その同じ年に承諾の返事を受け取ったエラスムスは、ヴェネツィアのアルドの家にしばらく滞在し、ローマ古典文学の何冊かを監修することになった。アルドが創設したギリシア・アカデミーに通い、高名な印刷所を中心に集まる数多くの文化人たちと交流を深めたのである。エラスムスはまさに、『アダジア』のこの版によって大きな名声を得ることになる。それまで彼の名は、ごく少数の宗教学の専門家に知られていたにすぎなかった。文献学的に正しい聖書を出版するという壮大な計画を語ったからである。

1515年2月6日、病に倒れて何か月もたたない内にアルド・マヌーツィオが亡くなった。享年およそ六十五、かなりの年齢になってから結婚したマリアとのあいだに、小さな子どもが四人残された。マリアの父親は、アソラの印刷者アンドレア・トッレザーニ、つまりアルドの長年の仕事仲間である――例によって例のごとく共同事業者の関係を強化するための結婚だった――。マリン・サヌードは、都市の重大事件を扱う年代記にこの別離のための頁を割き、葬儀の細部にも触れている。
マヌーツィオの碑アルド・マヌーツィオの碑サン・パテルニアーンの地面に置かれた地図[左、マヌーツィオは最初リーオ・テラ・セコンドに印刷所を創設しました。中、サン・パテルニアーン教会裏に印刷所を移しました。右、現在のマニーン広場に彼が葬られたサン・パテルニアーン教会がありました(写真のようにマニーン銅像下に当時の地図があります)。尚、2007.10.31日のエミリアーナ書店、2007.12.13日のサン・パテルニアーン埋立通り等もご参照下さい。]
取るに足りないような些事にも注意を怠らない彼は、わずかな言葉で的確に、サン・パテルニアン教会でおこなわれたアルド・マヌーツィオの告別式を描写している。アルドが生涯をかけて作りつづけた多くの《書物が棺の周囲に》置かれ、厳粛な葬儀だったが、洗練された演出にも欠けてはいなかった、と。

サヌードのこの十数行の文章のなかに、《アソラの印刷者アンドレアの娘婿》マヌーツィオは生前《多数の献本》をおこなったという記述がある。そして自分もまた《数多くの作品》の献呈を受け、ポリツィアーノのラテン語文献やオウィディウスの『変身譚』などを手にしたと書いている。彼の心のなかには抑えきれない不満が染みついていたが、『日記』のこの言葉を読めば分かるように、少なくとも一度は満足の気持ちを味わったのである。

葬儀の機会に、年代記作者サヌードは、かつて受けた評価に返礼するつもりだろうか、アルドを《最高の文人》だったと読んでいる。ともかく現実主義者のサヌードは、アルドの遺体が、最後の旅路に就くその時まで、薄気味の悪い安置所の暗がりに置かれていたことも書き漏らしていない。 ……」 (2に続く)
RamusioAsola[上記に"ラムーシオ""アソラ"があります。Ramusio、Asola と思われますが、Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia(Edizioni RAI)によれば、図版のように《ラムージオ》《アーゾラ》と読むようです。イタリアのPCサイトの辞書"Treccani"も同じようにSを濁る指定をしています。固有名詞は特に正確を期したいものです。尚、2013.08.31日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョも参考までに。]
  1. 2017/07/27(木) 00:06:51|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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