イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: グリッティ館他

コルネール小館を更に右へ進むと、右隣にグリッティ館があります。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を語っています。
グリッティ「16世紀の終わり頃、建てられた後期ルネサンス様式の建物で、ノービレ階中央に露台付きの三連窓がある。グリッティ家は"新しい"家族(家系)の一つで、初期から護民官として活動を行ってきた。そして1200年からの活躍の歴史が史書に明らかである。1400年代には家系が途絶えた。
[ヴェネツィアの上流貴族は"古い"と"新しい"家系に分けられ、新しい家系(case nuove)はバルバリーゴ、ドナ、フォースカリ、グリマーニ、グリッティ、ランド、ロレダーン、マリピエーロ、マルチェッロ、モチェニーゴ、モーロ、プリウーリ、トゥレヴィザーン、トゥローン、ヴェニエール。一方古い家系(case vecchie)は二つに区分され、一つはバドエール、バゼッジョ、コンタリーニ、コルネール、ダンドロ、ファリエール、ジュスティニアーン、グラデニーゴ=ドルフィーン、モロズィーニ、ミキエール、ポラーニ、サヌード、もう一つはバロッツィ、ベレーニョ、ベンボ、ガウリ、メンモ、クェリーニ、ソランツォ、ティエーポロ、ザーネ、ゼーン、ズィアーニ、ゾルズィの各12家となっているようです。]

他の貴族の全ての家系のように、セレニッスィマに有能な政治家を送り込んだ。中でも最も重要なのは、ルネサンス期の典型的な人物、アンドレーア(1455~1538)であった。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』]  他国語を数多く話し、教養豊かであった彼は、また商業・軍隊・外交の領域で多様な才能を発揮した。肖像画で見るように体格的にも素晴らしく――そうした肉体派の一人として――ティツィアーノが描いた。晩年まで彼の人生を活気付けた女性達の強烈な恋人像であったし、彼が認知した庶出の息子達が何人もいた。

彼は長年ヴェネツィアから遠く離れた土地で生活してきた。特にコンスタンティノープルである。そこでスルタンの信頼を得ていたのだが、1497年セレニッスィマの情報提供者ということが咎としてあったのか、投獄されたのだった。しかし不興を買った訳ではなく解放され、1503年にはトルコとの和平交渉をする程だった。

50歳代になって祖国に帰り、重要な役職に就任し、1523年には功績で総督に選ばれた。しかしながら彼の庶出の息子達が原因で、その選挙への反対者が沢山いた。というのは元老院でアルヴィーゼ・フリウーリが、"この職はトルコで3人もの庶出の息子を作るような人間がいるべき状態にはないのだ"と、異議を唱えたからだった。

彼の総督在位期間、アンドレーアは海からの危機、即ちトルコからの危機に直面せざるを得なかった。更に陸からも全ヨーロッパを巻き込んだフランスとドイツの確執が押し寄せた。というより、むしろ総督になる前、彼はフランス人に投獄され、パリに連行されたが、こうした危険極まりない重大局面でも、何とか生き延びて来たのだった。

1525年に元老院全員が唖然としたことは、引き続く二つの公聴会で総督アンドレーアは、最初フランスへの大使を受理し、皇帝カール5世(Carlo Ⅴ)によりパヴィーア戦争で拘束されたフランソア1世(Francesco Ⅰ)のために熱い涙を、この人物に対して見せたことであった。直ぐ後にドイツ大使を引き受け、フランソア1世に対するカール5世の勝利を彼と共に喜んだ。

そして歓喜して元老院に報告したのである。彼は喜びに沸く人々と共に喜び、苦しみに悶える人々と共に涙する……と言った聖パウルスの言葉に忠実に従ったのだ、と。

強い、決断力のある性格であり、中でもかつて1172年許可され、彼の先任者誰も公に禁じようとしなかった、サン・マルコ小広場の2本の円柱の間での賭博を禁止したのである。

偉丈夫で精力旺盛、絢爛たる魅力の二枚目であった彼は、また大食漢でもあり、当時の人には、今日のように一般的ではなかった大蒜や玉葱に丸で目が無かったと言われている。彼は病気ではなく、串焼きにした鰻を鱈腹食べ過ぎ、83歳で亡くなった。」
ポラッコ館ホテル・カナル・グランデニーグラ館[中、写真中央、ホテル・カナル・グランデ]  グリッティ館を過ぎますと、倉庫に使用されている建物2棟、20世紀の住宅用の建築等2棟と続き、やはり20世紀建築のCasa Polacco があります。現在はこの建物は右のサン・シメオン・グランド広場からアクセス出来るHotel Canal Grande となっているようです。更に右の20世紀住宅を越えると大運河前が庭となったCasa Nigraとなります。
ジェノヴェーゼ館この建物は建築家ジョヴァンニ・サルディが1904年に建てたネオ・ゴシック様式の建物だそうです。ネオ・ゴシック様式の建物といえば、同じ左岸のサルーテ教会手前にある、サルーテ教会の景観を遮るように建つので評判の悪い、大きな建物ジェノヴェーゼ館(左写真――トゥリコーミ・マッテーイ、1892年建設。現在チェントゥリオン・パレス・ホテル)もそれです。
  1. 2017/07/20(木) 00:06:44|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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