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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(4)

(続く)
「ヴェネツィアに帰還したピエトロ・ベンボは、ありとあらゆる礼を尽くして迎え入れられた、と書き記しているのは、もちろんマリン・サヌードである。
Palazzo Sanudoサヌードの家1サヌードの家2サヌードの家3[左、『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』vol.1,2 (Piero Pazzi, Tipografia del Centro Grafico di Noale)のサンタ・クローチェ区の1頁、サヌードの家が1757番地とあります。左中、サン・ジャーコモ・ダ・ローリオ広場北、運河の北にメージョ橋があり、左にサヌード館が見えます。右中、テントール通りを西へ、メージョ橋があり、中央にサヌード館が。右、1757番地の建物。Marin Sanudoは伊語ではMarino Sanutoと表記されます。]

1530年9月、『日記』には、《三千ドゥカートの報酬を得て何も書かずに没した》ナヴァジェーロの後任として、《詩神たちの共通の父》が選出されたと書かれている。12月、図書館の引継ぎにあたり、サヌードはこう記している。ベンボが《ラテン語のヴェネツィア史を執筆する任を負った。前任者アンドレア・ナヴァジェーロは、三千ドゥカートの報酬とさらに毎年二百ドゥカートの年収を得ながら何も書かなかった》。

要するにわれらの年代記作者はまたもや戦いに敗れたのである。選出されたベンボ――ライバルとしてはあまりにも巨大な権威である――に咬みつくことはできなかったが、だからといって、依怙地な恨みつらみのなかで、何度も受けた不正を仄めかさないわけにはいかない。ただ執拗なまでに、哀れなナヴァジェーロに罪を着せるのであった。彼のすべての不幸の唯一の責任者であるかのように。
……
ピエトロ・ベンボは押しも押されもしない地位に君臨しつづけていた。ベンボは1532年の4月、つまり共和国史官となりニカイア文書を整理する任を引き受けてから間もなく、ヴェネツィアの誇りとなるべき図書館の創設に向けて決意をあらたにする。

そこでヴェットル・グリマルディと同盟を結んだのである。彼は高い教養をもつ有力な貴族で、革新派のアンドレア・グリッティ総督に近かった。総督としてもこの計画には賛成しており、あのローマ劫掠の後はとりわけ、ヴェネツィアにはこれらの遺産をしっかりと保護する義務があると考えていた。したがって図書館には、古代ローマ、古典古代とローマ帝国の刻印がなくてはならない。

四年後、図書館建設の責任者としてヤコポ・サンソヴィーノが任命される。ドイツ兵の襲来とともにローマを脱出した建築家で、ヴェネツィアに移っていた。造幣局やマルチャーナ図書館など多くの建築物を設計し、優れた手腕を発揮することになる。

これに関してベンボは厳格そのもので、貸し出し中の書物がもとの場所に収められるよう、ヴェネツィアの国外にまで容赦のない手紙を書き送っている。たとえば、1528年、マントヴァ大使ジョヴァン・バッティスタ・マラテスタに、エウクレイデスの写本が貸出されたが、それは手から手へとわたり、いまボローニャにあった。32年、ベンボはボローニャの行政官に手紙を書き、この写本を取り戻すことに成功している。ともかくすでにあまりにも多くのものが失われたのだ。

いずれにせよベンボは、信頼できるジョヴァン・バッティスタ・ラムーシオの協力を当てにしていたのである。だが古写本の貸出しについて有力貴族の何人かは、書記官が印刷者や外国使節と関係のある写字生に寛大すぎると言って非難しつづけていた。実際のところ、たとえばフランス大使ペリシエールは、十二名もの写字生を擁する正真正銘の筆写館を設置していたのだ。印刷者と写字生はまだ共存していた。 ……」
 
ピエートロ・ベンボについては、2012.01.14日のブログベンボ館でも触れています。
  1. 2017/08/17(木) 00:04:55|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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