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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(22): サン・マルコ広場

今までヴェネツィアの中心サン・マルコ広場について、余り触れてきませんでした。ヴェネツィアの古本屋で買ったLeone Dogo編集『Questa strana Venizia(不思議の町ヴェネツィア)』(Novara、1971)というガイドブックに、サンマルコについて簡単な紹介があるので訳してみます。
Veneziaサン・マルコ広場 1500年前、ヴェネツィアは存在していなかった。少なくとも“この”ヴェネツィアは存在していなかった。しかし繰り返される蛮族の侵入から逃れるため、ラグーナ(潟)の中に逃げ場を求めた、多くの政治的難民としてのヴェネツィア人の古い先祖達は存在していた。ある種の同盟で結ばれた小さなセンターが、ラグーナの島に幾つも発生した。人々は特に漁業の収益と塩の販売で生活した。

今やヴェネツィアを起ち上げた、これらの島のグループはこうしたセンターの一つを形成した(Rivo Alto[羅典語Rivus altus―深い川、運河]と呼ばれた島)。門の前に舫った舟があり、木と籐や葦で出来た垣のボロ屋が点在し、運河に架けた木の小さな橋、野生動物が通過出来るような小さな階段さえまだなく、耕された畑に囲まれて貧弱な礼拝堂や小さな教会があり、平らな地では雌羊や乳牛が飼育されていた。

塩田として囲われた区域は仕事に活気があった。運河岸のここかしこには、潮流のゆっくりした流れで動く粉挽きの水車の姿が散見された。これは紀元655年にヴェネツィアに到来して見渡せば、凡そそこに現出している風景であった、はたまた755年にさえまだ……。

修道女の果樹園――サン・マルコ広場なのか? 現在、当然サン・マルコ広場にはそうしたものはない。このエリアには運河と水溜りが走り、近くのサン・ザッカリーア修道院の修道女の所有になる樹木の生い茂る brolo[ブローロ―果樹園]が広がっていたのだ。[下図、サン・ザッカリーア教会]
サン・ザッカリーア教会[総督宮殿の辺りは brolo、brogio (ヴェ語、果樹園)と呼ばれ、サン・ザッカリーアの修道女の所有でした。12世紀、総督宮殿が増築して建てられることになった時、彼女達はその地を総督に譲ったので、総督が年に一度復活祭の日曜日、サン・ザッカリーア教会に表敬訪問をする仕来りが生まれたそうです。
総督宮殿下のアーケードは broglio(伊語)とも呼ばれ、大評議会で採決する前、票集めの買収のためにあのアーケード空間を行き来してひそかに票の売買が行われるのが毎度のことだったようです。そのため imbroglio(伊語、ペテン)という言葉が生まれました。オペラ等でごたごたや陰謀の場をインブローリオと言ったりします。]

809年カール大帝[シャルルマーニュ](伊語Carlo Magno)の息子ピピン(Pipino)が大軍を率いてリード島を平定した(当時そこにヴェネツィア政庁があった)。しかし彼の軍がザッテレまで来るとラグーナの水が退潮し[船が座礁し]、泥濘が罠となって足を取られ、二進も三進も行かなくなった。“水の穴”に足が嵌まり、文字通り全てが沈んだ。

ピピン軍は面目丸潰れで、何の成果もなしに退却したのである。ピピン軍の成果皆無の敗退で、ヴェネツィア人は自分達の中心地を、リードからより安全と思われるリアルトに移すことに決めた。それ故サン・ザッカリーア修道院のバデッサ座下の同意を得て、総督達は、現在総督宮殿が建っている場所に彼らの住居を建てた。
[サン・ザッカリーア教会には洗礼者聖ヨハネの父、聖ザカリアの遺体が祀られています。この遺体はビザンティン皇帝レオ5世(813~820)が友情の印として、ヴェネツィアに贈与したものだそうです。ヴェネツィアには福音史家聖マルコやシラクーザの聖女ルキアの遺体が現存します。]

その代りバデッサ座下は権力の象徴としての角の形をした総督帽(コルノ帽―corno dogale、acidarioとも)を総督に手渡した、総督は年に一度ザッカリーア修道院に表敬訪問する時、それで着飾るという特権を得た。

木の教会――20年ほど後(828年)、2人の冒険好きのヴェネツィアの商人[ブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコとルースティコ・ダ・トルチェッロの2人]が、エジプトのアレクサンドリアの教会から福音史家聖マルコの遺体を盗んでヴェネツィアに持ち帰った。その時まではラグーナの人々の守護聖人は、ドラゴンを制圧した聖テオドールス(San Todaro)であり、その何年も前の事、ビザンティンの将軍ナルセス(Narsete―ベルサリオス将軍の後任)の兵士達が、修道女の有名な《果樹園(brolo)》にお堂を建立したのだった。勿論の事、ヴェネツィア人は守護聖人の役を聖テオドールスから聖マルコに変更する事を決めた。
[ブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコとルースティコ・ダ・トルチェッロについては、2008.11.09日の聖マルコ伝説で触れています。]

新しい守護聖人の栄えある教会が、数年後総督の《城》[当時はまだPalazzoになっていなかったようです]の直ぐ傍に建造された。それは当時ヴェネツィアの全ての建造物がそうであったように木の教会で、976年僭主化していた総督に抗議した人民が、総督の館に近い教会に火を放ち、焼失したのだった(この総督ピエートロ・カンディアーノ4世は逃げ出そうとしていたところを、教会玄関で腕に抱えた幼い息子もろ共虐殺されてしまった)。

新総督ピエートロ・オルセーオロ1世はより美しい、未だかつて見た事もない物を再建した。彼は国家財産に全てを注いだ聖なる男だった。だから自費で建てようとし、直ぐ傍に貧しい巡礼者のための施設(救貧院)さえ建てたので、聖地(エルサレム)を目指す全ヨーロッパからの夥しい人間がヴェネツィアに詰め掛けた。
[エルサレムへの巡礼行はヴェネツィア或いはマルセーユから船で行く便が有名でした。ヴェネツィアでは船の出航までの期間、巡礼者達の扱いに色々策を練ったようです。言わば、当時からヴェネツィアには観光業が存在したという事。例えばザビエル(最近はバスク人だったこともあり、シャビエルと表記するようになったようです)が日本に到来する前、イグナティウス・デ・ロヨラがエルサレムへの巡礼行のため、インクラービレ養育院で奉仕活動をしながら船待ちをしていたそうです、それは実現しなかったようですが。]

現実のサン・マルコ寺院は1063年に完成した。

広場の生成――セバスティアーニ・ズィアーニはサン・マルコ広場にその景観を与えた総督である。彼の在任中(1172~78)、《バドエール運河》を完全に埋立て、広場を広げた。この運河は古い“brolo”の真ん中を流れており、プロクラティーエ・ヴェッキエ(旧収入役館)と呼ばれた建物が左に建てられた。総督ズィアーニは“総督城”も新しく、もっと美しいものにしようと考えた。
サン・マルコ広場サン・ジェミニアーノ教会[カナレット画、左、サン・ジェミニアーノ教会側から見たサン・マルコ広場、右、サン・マルコ寺院側から見た旧サン・ジェミニアーノ教会]  1500~1600年の間に広場と小広場は決定的なその姿を形作る事になった。時計の塔が建ち上がり、サンソヴィーノ図書館(総督宮殿前)、プロクラティーエ・ヌオーヴェが姿を見せた。1902年崩れ落ち、“come'era e dov'era(元の姿で同じ所に)”と再建された鐘楼を別にして、新しい建造物はフランス軍占領下に作られた、いわゆるナポレオン翼である。それは1500年代建築のサン・ジェミニアーノ教会を壊した跡に建てられた。」
  1. 2017/10/19(木) 00:53:37|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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