イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(3)

(続き)
「《フラーリ聖堂の三連祭壇画》は、ベッリーニが教会内部の聖母と諸聖人を表した三番目の祭壇画であり、この絵をもって画家はある特定の問題に対する解決法を見出した。その問題とは、説得力のある自然主義的な方法で、間違いなく聖母に適しているがむろん屋内のものである聖堂という舞台の中に、浸潤する陽の光や外気の明るさをいかに描き出すか、ということである。
聖母[サイトから借用]  教会内部を聖母の舞台として用いる、というネーデルラントの着想をイタリアへ導入したとされるピエロ・デラ・フランチェスカは、光源の隠された日光に満ち溢れる、完全に閉ざされた教会内部を表現した(1472年頃)。この方法をアントネッロ・ダ・メッシーナが1476年に《サン・カッシアーノ聖堂の祭壇画》をもってヴェネツィアに伝えたことは疑いない。

だが彼がピエロと同じく、閉鎖された屋内を絵画化したのか、あるいは部分的に空の見える教会を創作したのかは不明である。ベッリーニは、このモチーフを扱った自身の最初のヴァージョン、つまりドメニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のために制作されたが今日では消失している《聖母》(1476年頃)において、壁のない聖堂という別の着想を試みた。……」
……
「ティツィアーノが初めてフラーリ聖堂のために制作した作品である主祭壇の崇高な《聖母被昇天》は、フラーリ修道院の院長ジェルマーノ・カザーレによって1516年に注文された。この年はちょうど、フランチェスコ会から穏健派の会士たちが離脱する時期にあたる。教皇レオ10世が1517年にこの修道会の分裂を承認して発した『イテ・ヴォス・イン・ヴィアネム・メアム(和合の大勅書)』は、同会をほとんどその創設時から苦しめてきた危機の終焉を告げるものであった。
聖母被昇天[サイトから借用]  つまり、16世紀初頭における会士たちの苦々しい気分や、1517年の教団の分裂に帰結することになる様々な出来事こそが、ティツィアーノの祭壇画と主祭壇そのものをジェルマーノが極めて公的に発注した歴史的、そしてまさしく心理的な文脈なのである。他方、その神学的および宗教的な文脈は、聖母の無原罪懐胎の議論における会士たちの勝利であった。

聖母の無原罪懐胎の問題は、カトリック信仰のもっとも根本的かつ深遠な争点について論じるもので、何世紀にもわたって神学上の議題であり続けた。すなわち、無原罪懐胎の祝日は1476年に認可されたが、その教義の布告は1854年を待たなければならないのである。中世とルネサンス期を通じて、議論は《修道会の方針》に沿って真っ二つに割れ、フランチェスコ会士たちが無原罪懐胎を断固として擁護したのに対し、ドメニコ会士たちはそれを声高に否認していた。……」
……
「ティツィアーノの《聖母》は1519年、キプロス島パフォスの司教であるヤコポ・ペーザロ(1464~1547)によって無原罪懐胎の礼拝堂のために注文された。このヤコポの祭壇は、ペーザロ家がフラーリ聖堂で無原罪の聖母に捧げた二つ目の祭壇にあたる。第2章で見たように、聖具室のペーザロ礼拝堂を飾る祭壇画の中で、ベッリーニが無原罪懐胎の祝日の典礼文をはっきりと引き合いに出していることを考慮すれば、この聖具室の礼拝堂が彼女に献じられていたことは間違いないからである。
ペーザロの聖母[サイトから借用]  しかしながら、フランチェスコ会に属するフラーリ聖堂の修道士たちは、ペーザロ家がこの二つの寄進を行うはるか以前から無原罪懐胎の祝日を祝っていた可能性が高く、またサルトーリの引用する文書記録によると、1361年には、本堂のペーザロ家の祭壇があるのと同じ場所、もしくはその近くに、無原罪懐胎を奉献対象とする礼拝堂が建っていたという。

1498年には無原罪懐胎同信会が、この団体の規則を記したマリエーゴラに記録されているとおり、フラーリ聖堂の修道士たちの承諾を得て設立された。この新たな同信会の礼拝堂は、今述べたのと同じ、14世紀にすでに無原罪のマリアへの崇拝に結びつけられていた場所に存在した可能性があり、またその場所は、15世紀の終り以降は継続的に無原罪懐胎に奉じられていたようである。

というのも、ペーザロ家の祭壇の前方に立つ、同家の紋章のついた支柱には教皇グレゴリウス13世がこの祭壇と無原罪懐胎同信会に贖宥を授けたことを記念する銘文が、1582年の年記とともに添えられているからである。……」
……
「……サヌートによれば、ヴェネツィアでは総督が聖母マリアに敬意を表し、《聖母にまつわるすべての日》にサン・マルコ聖堂でミサに参列したという。また、ヴェネツィア人たちは二つの主要なマリアの祝日を、この共和国の世俗的な大祝日として祝っており、さらに三番目の聖母の祝日は、ヴェネツィアにおいてとりわけ世俗的な含みを有していた。

まず、第一の祝日から述べると、ヴェネツィア人たちの主張するところでは、この国は421年3月25日受胎告知の祝日に創建されたため、《ヴェネツィアの誕生 Origo Venetiarum》は毎年この祝日に祝われた。ヴェネツィア暦では新年が3月25日に明けるが、これも同一の理由によるものである。

また、著しい政治的意味を持つ教会サン・マルコ聖堂では、聖母と大天使ガブリエルをかたどった浮彫りがファサードを飾り、そこでは彼らが、同じくこの都市の守護者である聖ゲオルギウスと聖デメトリウス、ヘラクレスにつき従われている。ヘラクレスは、ヴェネツィア人の起源に関係を持つとされる神話上の英雄で、二度にわたって姿を現す。

そして、受胎告知はリアルト橋にも表現され、こちらでは、ヴェネツィアの最初の守護聖人である聖テオドルスと、彼の後を継いだ聖マルコその人がマリアとガブリエルの傍らに位置している。そして、こうしたイメージが一段と明快な形で提示されているのが、ボニファチオ・デ・ピターティによって国庫財務管理者庁舎(マジストラート・デラ・カメラ・デリ・インプレスティーディ)のために制作された三連の絵である。

この絵では、大天使ガブリエル、ならびに受胎を告げられたマリアが左右のカンヴァスを占め、中央のそれには、父なる神がサン・マルコ広場に祝福を授ける様子が描かれている。つまり、こうすることで、ヴェネツィアの建国がキリストの受肉に譬えられているのである。

さらに、受胎告知がこの共和国の創建を思い起こさせるという理由から、ヴェネツィアでは必然的に、内陣アーチに伝統的に描写されていたマリアとガブリエルの図像――フラーリ聖堂の聖具室に見られる作例など――がそれ自体で、宗教のみならず政治とも深いつながりを持つことになった。

その上、こうした政治とのつながりもあって、ヴェネト地方では、イタリアの他のいかなる土地よりも一般的に受胎告知が墓碑――フラーリ聖堂の内陣に据えられた総督の墓二つを含む――において視覚化されていたのである。……」
  1. 2017/11/09(木) 00:50:34|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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