FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(2)

(続き)
「フラーリ聖堂は、ヴェネツィアと外国双方のそうした同信会によるパトロネージから多大な恩恵を受けた。1361年、ミラノ人同信会は、聖アンブロシウスと洗礼者聖ヨハネを奉献対象とする礼拝堂の寄進に同意している。また、1435年にはフィレンツェ人たちが、ドメニコ会のサン・ザニポロ聖堂に礼拝堂を建てるという当初の計画をわざわざ放棄して、洗礼者聖ヨハネと聖母に献じる自分たちの同信会をフラーリ聖堂で創立する許可を得た。
Frari教会  このようにフィレンツェ人たちがフラーリ聖堂に寄進を行ったからこそ、ヴェネツィアに残る唯一のドナテッロの作品、すなわち彼が1438年に同国人のために制作した多彩色の木彫《洗礼者聖ヨハネ》は、この聖堂に収められているのである。」
……
「すでに1290年代後半の法律制定が、ヴェネツィアの有力な一族からそうした世俗的関心を取り除くとともに、彼らの政治上ないし社会上の持続的な優越性を、少なくとも彼らが男子の跡継ぎをもうけることができる限りにおいて、事実上保障していたのである。その極めつけの法律は『セラータ』で、これは実際に、1297年における大評議会の『閉鎖』であった。

すなわち、大評議会の議員資格が、過去4年間に議員を輩出している一族の男子に限定されたのである。大評議会はあらゆる官職の候補者を供給する排他的な源であったため、その議員資格の限定は、政府のすべての地位と権力にまつわる資格の限定を意味した。1297年のこの法律制定をもってヴェネツィアの貴族階級は自らを生み出したのである。

そして、それから約200年がすぎた頃、ヴェネツィア貴族たちは『貴族としての自意識に極限までみがきをかける』べく、貴族の出生および結婚について記載されるいわゆる『黄金の書(リブロ・ドーロ)』を編纂し始めた。1506年8月31日に十人委員会によって定められた法令により、貴族の父親は出生を記録する義務を負った。加えて、1526年4月26日に公布された法律に従い、貴族の結婚についても登記の必要が生じたのである。

ラータの発布された時期に貴族であった一族の中には、後にフラーリ聖堂の主要なパトロンとなる家柄も含まれていた。ベルナルド家やコルネール家、ダンドロ家、フォスカリ家、ジュスティニアーニ家、マルチェッロ家、ミアーニ家、トレヴィザン家、トロン家、そして言うまでもなくペーザロ家がその例である。いやそれどころか、ヴェネツィア貴族のすべてとは言わないまでも大半は、様々な機会に様々な方法でフラーリ聖堂に寄進を行っていた。

イタリアの他の土地におけるパトロネージをしばしば特徴づけるものであった、自分の居住地の近くに建つ特定の教会への忠誠というしがらみから解き放たれていたヴェネツィア貴族は、立地に関係なく教会に寄進を行っていた可能性が高い。事実、スタンレー・ホイナツキが明らかにしたとおり、1376年の行政上の国勢調査[estimoエスティモ(市民や町の財産評価。その評価に基づく税金や貢納金の意)]は、ヴェネツィア貴族全体の76.9%がこの都市の二つ以上の地区[sestiere(六つの区のこと)]に名を連ねていたことを明瞭に示している。」
……
「フランチェスキーナはピエトロ・ペーザロの未亡人であった。ピエトロは、ファンティーノの息子カローゾの甥にしてアンドレアの息子にあたる人物である。彼は1419年、アレッサンドロ・プリウリの娘アレッサンドラ、通称アレッサンドリーナと最初の結婚をした。この夫婦は、少なくとも四人の息子を含む数名の子供をもうけている。

その後、アレッサンドリーナは1427年に若くしてこの世を去るが、それ以前、おそらくは数回にわたる妊娠期間のいずれかに、万一のため遺言状を公証人に口述筆記させていた。遺言状は非常に簡潔で、埋葬場所については明記しておらず、アレッサンドリーナはその場所の決定を夫ピエトロら遺言執行者にゆだねている。

この最初の妻の死から一年後の1428年ピエトロは再婚した。その再婚相手こそが、サン・ベネット教区に住むニコロ・トロンの娘であったフランチェスカ、すなわちフランチェスキーナで、彼女はニコロ、ベネデット、マルコという三人の息子をピエトロにもたらした。そして、この三兄弟が、フラーリ聖堂におけるジョヴァンニ・ベッリーニのパトロンになるとともに、父よりも10年長生きした母を全面的に記念する、当初は聖具室礼拝堂を極めて豪華に飾り立てていたもののパトロンとなった。……」 (3に続く)
  1. 2017/11/01(水) 00:27:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
  3. | コメント:0
<<『遥かなるルネサンス』展―これが、天正遣欧少年使節がたどった、イタリアだ!! | ホーム | ヴェネツィアの人口(4)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

09 | 2018/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア