FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ザネッタ・ファルージ(Zanetta Farusi)(2)

(続き)
「サンクト・ペテルブルグからヴェネツィアに音楽家ピエートゥロ・ミーラ(Petrilloと通称)が、宮廷劇場のために役者や音楽家、歌手達の出演契約のためにやって来た。ファルッスィの契約金の総額(年に800ルーブル)と、更に契約した人達、特にカルリーノと呼ばれたアルレッキーノ役カルロ・アントーニオ・ベルティナッズィ等契約した人達の種類から、彼女がヴェネツィアでその年得ていた評価と人気のほどが証明される。

直ぐ後、サンクト・ペテルブルグに滞在していることが知られているが、ファルッスィを始め、他の喜劇役者達が帰郷することになった理由は知られていない。しかしイタリア演劇に対してロシア女帝アンナ・イヴァノヴナの興味がこの役柄に対してなくなったのは確かである。

1737年再びヴェネツィアにあり、ここでザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世でもある)に雇われたアンドゥルパ・ベルトルディと出演契約をした。宮廷劇団には欠けている仮面劇のキャラクターを演じるため、オペレッタ劇と“伝統的な本になった”散文劇を交代で演じる役者として採用されたのであった(o^ Byrn、p.25)。

ベルトルディに選ばれた喜劇役者には、ファルッスィ以外にイザベッラとベルナルド・ヴルカーニがいた。サン・ルーカ劇団のトップであったジェローリマとアントーニオ・フランチェスキーニやパーオロ・カレックサーナがいた。続いて他の役者が入団した。即ちマルタ・バストーナ、ジローラモ・フォシェル、ニコレット・アルティッキオ、ジョヴァンニ・カミッロ・カンツァーキである。

王妃マリア・ヨゼーファ(Maria Giuseppa)と内閣官房長官ブリュール公の庇護の下、1785年5月12日ドレースデンにデビューしたイタリアの役者達は、宮廷と観客と名声の高さのお蔭で、20年近くに渡って活躍出来た。特にファルッスィは1756年まで恋人役で人気を博し(1748年からはマルタ・バストーナと交代しながらであった)、かなりの収入を得た。

中でも注目しなければならないのは、子供達3人がやって来たので、いい仕事に付けるために手助けしたことである。フランチェスコは戦争絵画の画家になった。ジョヴァンニ・アルヴィーゼは絵画教師ジョヴァンニ・バッティスタとして有名である。即ち王立美術学校の教授である。マリーア・マッダレーナ・アウグスタはペーター・アウグスト宮廷のオルガン奏者と結婚した。

ドレースデンにやって来て、名前をジョヴァンナとしたファルッスィの役作りの中で、彼女の長い経歴の中で何度も演じられた、1749年のカーニヴァル用に作られた作品『Amor non ha riguardi(アモール[愛の神エロス]には用心深さがない)』の中のロザーウラ役、1752年2月7日のルイ・ド・カユザック(L. de Cahusac)の『Zoroastre[ゾロアスター=フィリップ・ラモーのために書かれた]』の中のエリニス(Erinice)役が特に記憶されている。

ワルシャワではサルヴァトーレ・アポッリーニ作の音楽劇『王冠を巡るメーストレとマルゲーラの争い(Le contese di Mestre e Marghera per il trono)』が1748年11月6日(あるいは12月5日)演じられた。それはメタスターズィオの幾つかの作品『見捨てられたディードー(Didone abbandonata)』と『許されたセミーラミス(Semiramide riconosciuta)』の特別な手法を利用し、それらのオリジナル性を欠いたパロディーとしてファルッスィが書いた(翻案した)ものであった。

その作品とは、《近代的嗜好に合ったものではあるが、エスプリを欠いたファルサ(一幕物の軽い喜歌劇)のようなもので、そこには“永遠の女性”が存在しないのである。台本は伊語と独語で、仏語と波語のメモが添えられており、ファルサについて批判的に述べれば、美学的には程度の低いものであった。しかしジョヴァンナ・カザノーヴァの内部では、生まれが卑しいことを考慮しながらも、イタリア的な要素は並外れた創作力に達しているという自覚があった。》(o^ Bryn、p. 306)

加齢するにつれて、貴族の母親や性格俳優の役を引き受けることを拒んだため、しばしば笑い者にされ、無能力と見做された。ビュルンが引用したシュツットガルトの匿名の批評家は、ファルッスィについて情容赦のない姿を記録に残している。《四十歳は超えている。……相当肥満した女である。顔は劇場の魔術(化粧と衣装)にも拘らず、老女である……汚らしい女、正に女の悪魔、彼女は恋人役でなければ演じられるかも知れない……若い恋人としては声があまりにしわがれ過ぎている。今述べた魅力とガラガラ声の40女が未だに恋人役を演ずるのは、正に軽率の極みである。》

より寛容なエ・ビュルン男爵は、他でもない、彼女の鮮やかな活気を称賛した。《何であれ、その人となりの優雅さや声の美しさといったものと取って代わることは出来ないが、そうした弱点というものは、正に民族的なもので、調和したエスプリ、ユーモアに満ちた演技で緩和されるだろう。それが年齢や外観のことを忘れさせるのである。》

晋墺の7年戦争が勃発し、帰郷を選んだイタリアの多くの仲間と違って、ファルッスィはプラハに避難した。そして戦闘行為が続く間はそこに留まった。1763年ドレースデンに帰ると、400ターレルという王の寛容な年金のお蔭で、落ち着いた晩年を過ごすことが出来た。

ファルッスィは1776年11月29日、ドレースデンで没した。」

Youtubeにカザノーヴァの少年時代(『Infanzia, vocazione e prime esperienze di Giacomo Casanova』日本未公開。かつて伊文化会館イタリア映画祭で見たことがあります)を描いた映画があり、当然彼の母親が登場します。F.フェッリーニの映画『カサノバ』はチネチッタのベネチアを想定したセットで撮られましたが、この映画は実際のヴェネツィアの街もふんだんに見ることが出来ます。
  1. 2017/11/23(木) 00:40:38|
  2. | コメント:0
<<ヴェネツィアの街案内(23): アルセナーレ近辺 | ホーム | マドンナ・デッラ・サルーテ教会の祭り>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

09 | 2018/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア