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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(26): アルセナーレ近辺

(続き)
「船舶博物館を後にして、パラディーゾ橋の方に向かってアルセナーレ運河通りを行く。その橋を渡る前に、船舶博物館への入場券を提示して、二つの錨のある船のパビリオンの閉じられた門を潜って、アルセナーレ分室の小さな工場に入場可能である。その内部で地上に引き上げられた素晴らしい船を見ることが出来る。

30年代に登場した流線型のモーターボート、アレックス・カロッツォに手直しされた小さな帆船(この冒険心旺盛な船乗りアレックスは大西洋の単独航海に成功した)、ポー川で品物を運ぶブルキオ船[北イタリアの川や湖で櫂や帆で物品を運ぶ平底の運搬船]、エレクトラの驚くべき遺物、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』のように、我々に何とかして未来の状況について考えさせようとするグリエルモ・マルコーニの船等、更に運搬のためや潜水夫への酸素補給の設備を備えた船、それはムー(Mu)の物語[1925年の消えた大陸アトランティスの話]のコルト・マルテーゼの事を我々に思い起こさせる。

アルセナーレ広場のアルセナーレの入口(1460年)はその偉容を如実に示すものである。有翼のライオンがアーチの凱旋門のようにその入口を睥睨している。直前に近付くと、異教の神々の像が間隔を取って設置され、鉄の格子で仕切られている。柵で囲われたその外は、左の入口を見張る最大のライオン像を筆頭に、4匹のライオンが整然と並んでいる。
[2008.06.06日のブログでダンテとアルセナーレについて触れています。]
パラディーゾ橋アルセナーレ橋[左、ウインザー城所蔵のカナレットのデッサン(『The Arsenal and ponte del Paradiso』伊語L'ingresso dell'Arsenale e il ponte del Paradiso)、右、カナレットのその完成画(『Il ponte dell'Arsenale』(1733-34))]。

その最大のライオンには古いルーン文字碑文の痕跡が残っており、その意味するところは、1040年ギリシア人の反乱に対峙するビザンティン皇帝へのスカンディナヴィアのノルマン商人達(Vareghie)の援助の事である。
大ライオン[サイトから借用] この左のライオンはフランチェスコ・モロズィーニが、1692年の戦争の戦利品としてヴェネツィアに持ち帰った物である。アテネのピレエフス(Pireo)にあったもので、そこにアテネ港の入口の番人として置かれていた物である。
[2015.06.16日にフランチェスコ・モロズィーニについて触れました。]

アルセナーレは数世紀の間に何度も火災を起こした。中でも被害の大きかったものがカンブレー戦争(1517年)前にもあったが、1569年の火事はそれと同等の凄まじいものだった。しかしそれに続く年、レーパントでトルコ軍を破った(1571年)その大艦隊を作り上げる造船所の能力を阻害しなかったのだ。それはヴェネツィアの富の証であり、そこで働く職人達の粘り強さと有能さの証であった。

アルセナロッティ[アルセナーレの職人衆]とは、この小さな自治都市の内部の造船所に従属する労働者全てを指すが、共和国時代、特別の特典を持っていた。とは言え、ヴェネツィアの力を支える真の支柱であった。主要で独占的役割が与えられていたので、直ぐにある種の労働貴族になった。大評議会の会期中の総督宮殿の護衛の任、造幣局の守護の役、防火消防の全ての責務、その他類似の活動があった。

船大工、鋳物師、鍛冶屋、武器職人は、全てこのエリアに集められた30もの各種の手仕事を熟知していたし、女工達は帆の保全管理の係であり、これら全ての仕事には職人見習いや索具の仕事に携わる10歳以上の多数の少年達が従っており、この大工場にはかなりの人々が蝟集していた。

アルセナーレの周りには、12世紀に遡る一連の住宅があり、共和国の特別の計らいで、それと分かる船乗り達に支給されたものである。それ故、この地域から"Marinarezza/Marinaressa=伊語marineria/Marineresca(海軍)"という言葉が由来している。

町でもよく知られたこの地域は、常に人々が住み、各地から到来した色々な人々で賑わっているが、ヴェネツィア人以外では、ダルマティアの漕ぎ手、ギリシア・トルコ・アルメニア・アラブ・シリアの商人、ビザンティンの高官、解放奴隷、兵士、冒険家と人種の坩堝で、ヴェネツィアをして全欧州で最も開放的且つ寛容な町の一つとしていた。

この点でこの近辺で美味しそうなテーブルに腰を下ろすとすれば、我が近海の最良の味の魚を食するに、二つの選択肢がある。通りがかりの美食家に知られた場所が、我らをご馳走で待ち受ける。

先ずはペストリーン通り(ライオンに目をやりながらアルセナーレの前を左に行き、サン・マルティーン教会左前方の鉄のストルト橋を渡り、狭い小路を道なりに行く)に、正に"Corte Sconta"という名の店がある。Hugo Prattの思い出によれば、[Corto MalteseのCorto Scontoから]この名前は既に独り立ちして、興味を持たれるようになっていたのである。

もう一か所は"Al Covo"というレストランで、ペスカリーア小広場から数歩の所である(その道をそのまま進み、交差点に出たら左に曲がると、右前方にある)。この二つは少し値が張るのは確かだが、可能なら、試すに充分値する場所である。

本当のレストランには立ち寄りたくない向きの人には、ヴェネツィアでは幸運なことに、別に典型的な居酒屋がある。そこではヴェネツィア人と一緒にカウンターの前に立ち、好きなワイン(ombra)の杯を手に、美味しく料理された小さな料理(cicheto=伊語cichetto)を摘まむのである[有名なバーカロの事。ここでは基本的に酒で摘みを飲食するので、コーヒーを飲みたい人はバール等に向かいます]。 ……」 (27に続く)
  1. 2017/12/19(火) 00:43:59|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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