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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(27): アルセナーレ近辺

(続き)
「取り敢えず、こうしたレストランは後にして、ピオヴァーン小広場に足を止めてみると面白いかも知れない。ここには井桁が3基ある。更にヴェネツィアで稀な事に、ここには店屋、バール、職人工房等全く無いのである。在るのは静寂のみ。この町の中でも、魔法のように隠された静穏が、賞味されるべき静穏なのである。平静に周辺を見渡し、良く見て、些細なまでの詳細、石の、屋根瓦の、窓枠の桟の色を玩味し、遠来の音を、鐘楼の時鐘を、口笛の唄を聴く。偏に静寂である。

前方のマルヴァジーア・ヴェッキアの小路を行き、右に曲がるとバンディエーラ・エ・モーロ・オ・デ・ラ・ブラーゴラ(Bragora)広場に出る(古くはBragolaで――メルカート広場――あるいはオリエントから洗礼者聖ヨハネの聖遺物が到来し、教会は彼に献堂された)。この教会でヴィヴァルディは洗礼を受け、また1247年エジプトのアレクサンドリアから齎された聖ジョヴァンニ・エレモズィナーリオの聖遺物が保管されている。
[ブラーゴラ広場のヴィヴァルディについては2010.04.03日のヴィヴァルディとジロの家で触れました。]
ブラーゴラ教会と3805~09番地[ブラーゴラ広場] この広場に関しては、1819年2月のカーニヴァルの期間中、町に呼ばれたサーカス団の象が暴れ出し、自分の調教師を投げ殺して、リーヴァ(海岸通り)・デッリ・スキアヴォーニを逃げ、幾つかの門、外階段と井桁を壊し、正にここブラーゴラ広場まで来た。教会内へ入り込んだそうで、そこから出たくなかったのか出れなかったのか、言わばはちゃめちゃ状態になり、結局海軍近衛隊が介入せざるを得ず、臼砲を持ち出し、軍隊式の陣立てで可哀そうに動物を射殺した。
[2012.09.15日のピエートロ・ブラッティでは象の逃げ込んだ教会はもっと奥にあるサンタントニーン教会としています。]

教会左からコルセーラ通りを行き、ペストゥリーン通りからサン・マルティーン通りへ戻る。左のペニーニ橋を渡り、運河側のゴルネ運河通りを行く。右側はアルセナーレの城壁である。その道終点まで行くと道が左へ折れて、フーゴ・プラットのファンタジーである、カッティーヴィ・ペンスィエーリ軒下通りである。
ド・ポッツィ広場[ド・ポッツィ広場] 更に左へ進み[右はマーニョ通りです]、ド・ポッツィ(二つの井戸)広場を行くと、角に居酒屋がある。ここの肉団子(polpetta)は大変美味しい。ちょっと一服した後、ここの門前の道を行くと左数歩の所、ロッタ(Rotaとも)小広場の前に、Corto Malteseの地名にある、《アラーボ・ドーロ小広場》がある。
[上記マーニョ通りに語学校のマッスィモ先生の家があり、そこをアパートに借りました。2007.10.28日のド・ポッツィ広場でそれらについて触れています。この広場の居酒屋が写真に一部見えているアイ・フォルネーリと思われます。]

引き返し、最初の左を曲がり、直ぐに右へ曲がる。スクーディ通りと同名の橋を渡る。ここから更に左へ、ガーテ広場からフルラーニ通り、コメンダ橋の手前を右へ曲がるとマルタ騎士団の教会とその在所がある。

マルタ騎士団の教会は騎士団の団長宅の傍に建てられ、俗にサン・ジョヴァンニ・デイ・フルラーニ教会と呼ばれたが、正式にはサン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会で、11世紀末に遡り、12世紀に始まる。テンプラーリ騎士団の解散(1312年)後、ロードス島で発展したエルサレム・ヨハネ騎士団、即ちマルタ騎士団となった。

かつて教会は華美に装飾されていたが、1800年代初頭ナポレオンにより全ての調度備品や絵画は完全に汚されてしまった。今や教会は土曜日の17.30分のミサの時だけ開かれ、訪問出来るのはその時だけである。内部には色々な騎士団のあらゆる紋章で囲まれた魅惑的な中庭(chiostro)が我々に今でも白昼夢を見させ、鎧で飾った騎馬のギャロップの轟き、甲冑を着け、新月刀での一突き、色取り取りの軍旗はためく姿を想像させる。
サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館[サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館] マルタ騎士団教会の傍には、サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館がある。アドリア海対岸の住民との繫がりは相当古い時代に遡り、15世紀初頭のセレニッスィマの支配下に入ったダルマティアの併合によって、1451年この同信会館は三聖人、即ち騎士ゲオルギウス(Giorgio)、少年トリフォン(Trifone)、賢者ヒエロニムス(Girolamo)の保護の下に同業組合として集まったものである。

最初マルタ騎士団教会(サン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会)、次いで1500年代初期、エルサレム・ヨハネ騎士団の修道院の土地に建築家ジョヴァンニ・デ・ザーンによって建てられたファサードを持つ現同信会が建てられた。内部は三人の守護聖人に捧げられ、1502~07年にヴィットーレ・(スカルパッツァ・)カルパッチョによって描かれた一連の絵画作品で飾られた。その絵は最初二階に置かれていたが、1551年頃一階に移され、現在はそこで鑑賞出来る。
[カルパッチョについては2011.07.26~2012.11.10日までヴィットーレ・カルパッチョ(1~6)として触れました。カルパッチョ、素晴らしいです。]

この内部はルネサンス芸術の最も貴重な例証の一つであり、事実手付かずに保存され、1797年ヴェネツィア共和国が崩壊した時、殆ど全ての同信会館が閉鎖され、その財産は国家の手に渡るか失われてしまった。こうした事態はサン・ジョルジョ同信会館では発生せず、特別の通達のお蔭でその財産を保持し、活動を続行出来る特権を得た。

この絵画とは9点の画布である。『書斎の聖アウグスティヌス(Agostino)』『僧院の聖ヒエロニムスと獅子』『聖ヒエロニムスの葬礼』『聖ゲオルギウス、龍を退治する』『聖ゲオルギウスの勝利』『聖ゲオルギウス、異邦人(Selenito月世界の人)を洗礼』『聖トリフォン、皇帝ゴルディアヌスの娘の悪霊を払う』それに『聖マタイの召命』『菜園ゲッセマネの祈り』が加わった。これらの画布はその一つ一つが細部まで豊かに表現されたその魅力で、思わず方向感覚を失って我を忘れさせるような、画家の素晴らしいスタイルが現れている。
『竜を退治する聖ゲオルギウス』十字架の奇蹟[左、『聖ゲオルギウス、龍を退治する』、右、『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   カルパッチョがこの町を決して動こうとしなかったことを考えると、彼が何度も描いたその風景が理解され、その構成は彼を取り巻く現実の中で幾度となく驚異的に修正を施したものであったろう。この驚異の画家の作品に魅了された者は、アッカデーミア美術館で《聖ウルスラ(Orsola)伝シリーズ》を見逃す訳にはいかない。更に『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』である、その挿話は、ロジェッタ上の左の画布に描かれた、ヴェネツィアで群がり集まる人々の様子を描いたものであるが、その一方でゴンドラは古い木製のリアルト橋の下を静かに流れる大運河に浮かんでいるのである。 ……」 (28に続く)
  1. 2017/12/25(月) 00:08:06|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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