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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(28): アルセナーレ近辺

(続き)
「スキアヴォーニ同信会館を後にして、ピエタ運河近くのフルラーニ運河通りへ向かって行こう。右手のサンタントニーン橋を渡るとグレーチ大通りに近付く。そこには“トラットリーア・ダ・レミージョ”がある。更に橋に向かって進み、橋は渡らず、直前を左へ曲がるとヴェネツィア的でも未だ手垢に塗れない一つの区域で、浮かんだような運河通りを見ることとなる。コルト・マルテーゼが隠れ家とした所である。

ここには聖ゲオルギウス(S. Giorgio)に捧げたギリシア人コミュニティがある。西欧でも最古のもので、トルコ占領時代、ヴェネツィアは四散したギリシア人の最も重要なセンターとなったことを我々に思い起こさせる。こうして最初からギリシア人の流入があったのに、ビザンティン帝国の崩壊という、その時(1453年)から、インテリ、編集者、芸術家、筆耕者らが集まってきた。結局ヴェネツィア人以外では、ギリシア人コミュニティが最も著名なものとなった。
[ギリシア人画家テオトコプーロスはヴェネツィアでも活躍しましたが、スペインに渡り、大変有名となり、“エル・グレコ(El Greco―ギリシア人)”と呼ばれることになりました。]

寛容なヴェネツィアにあっても、ギリシア正教の祭式を認めることは教会分裂という事態になるので、それを営むことの出来る土地を確保することには問題が発生した。長い争いがあり、サン・ビアージョ教区でギリシア人にミサの挙行が許されるという過渡期を経て、最終的にある信者会に纏まってよしとする認可を得て、サンタントニーン教区に土地を購入し、1539年教皇庁の承認の下、殉教者聖ゲオルギウス(S. Giorgio Martire)に捧げる教会建設に着手した。工事は1573年完了した。建築家サンテ・ロンバルドと副建築士アントーニオ・キオーナに委ねられた。一方に傾いた鐘楼は建築当初からこうであり、ベルナルディーノ・オンガリーンの建造である。
サン・ジョルジョ・デイグレーチ[サイトから借用]  信者会に対してセレニッスィマは好意を示したが、ギリシア人傭兵隊は戦闘行為や勇敢さにおいて際立つ男達で構成され、非常に威力のある軽騎兵隊であり、戦時その助力を提供してくれ、ヴェネツィア政府にとって好都合であったに違いない。

15世紀から16世紀初頭にかけて、ヴェネツィアはヨーロッパの中でもギリシア文化センターとして、唯一最も名高い場所になっていた。アルド・マヌーツィオはプラトンやアリストテレスのようなギリシア古典を、ギリシアの研究者やインテリ達の協力を得ながら、出版し始めていた。その中には教皇レオ10世やロッテルダムのエラスムスの協力者として知られていたマルコス・ムスロス(Markos Mousouros―伊式Marco Musuro)のような人がいた。
[アルド・マヌーツィオについては、2011.06.11日~ のアルド・マヌーツィオ(2~4)とか、2017.07.27日の書物の夢、印刷の旅等で触れました。]

1662年教会傍に、フランギニアーノ(Franghiniano)と呼ばれた高等学問研究所が設立された。莫大な量の遺産をこの信者会に残した希人弁護士Thomas Flanginis(伊式Tommaso Flangini)が設立し、彼の名を取ったものである。同時期にバルダッサーレ・ロンゲーナに病院を建てさせたが、それはこの博物館となっている。

今日この建物群の総体を見に訪れてみると、我々を時空を超えた世界に導く。博物館内部には興味豊かなイコンやミニチュアを描いた写本が蒐集されており、巨大な卵形の階段は美しい広間、コンフラテルニタ同信会館の参事会集会所へと続く。現実にはギリシア研究所の後援会議場で、時には現代ギリシア芸術家の展示場となる。教会背後、後陣の下は古い小さな墓場である。

沢山の杯や聖ゲオルギウスと龍を描いた浅浮彫りの間では、美しい静寂に満ちたオアシスが、瞑想と崇高の時を与えてくれるだろう。そして香の薫香がこの美しい教会内部へと引き寄せる、そこはビザンティンのイコンのように黄金で飾られ、両側は木製の聖歌隊席が置かれている。

内陣と身廊の界壁(聖障)のテーブルの上の絵画は、多くがクレタ島の画家ミケーレ・ダマスキノース(16世紀)の作品である。この建物内部では、ビザンティンと後期ビザンティンを研究するギリシア研究所が活動している。それはギリシア国外では唯一のものであり、貴重で豊富な資料を研究者達は自由に利用出来るのである。
サン・ロレンツォ教会[ヴェネツィア警察前から、修復中のサン・ロレンツォ教会を望む]  ギリシア教会を後にして、橋を渡り、右の運河通りをサン・ロレンツォ橋まで行く。右へ橋を越え、サン・ロレンツォ通りを運河まで行くと対岸にマルタ騎士団の旧修道院が見える。道を左へ取り、コルテ・ノーヴァ橋を渡ると居酒屋“ダ・ダンテ“がある。未だ旅行客の手に塗れていない場所である。

このノーヴァ小広場を過ぎり、左の軒下通りへ入ると、聖母の祀られた小さな祭壇があり、是非見ておきたい。伝説によれば、この小広場の住民をペストや他の伝染病からいつも守ってくれたのだという。この通りから抜け出す前に左を見ると、鉄格子の扉(2862番地)があり、その奥にはマルテーゼあるいはボーカ・ドラーダの小さな庭(フーゴ・プラットによる)がある。

我らが散歩を更に続行し、サンタ・ジュスティーナ大通りの方へ右に曲がろう。扶壁の付いた家の隣、ベーネト・ビザンティン様式の大理石の美しい開廊の前に出る。その背後に魅力的な広場が隠れているのである。取り分けそこ、マッラーニ通りはフーゴ・プラットが場面設定に利用したのである。

交差路にやって来て左へ曲がると、橋を越えて、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ広場に出る。フランチェスコ修道院と教皇大使の宿泊所を繋ぐ、渡廊下となった中空の通路を支える列柱の中を潜り抜け、この教会(ヤーコポ・サンソヴィーノの1534年の作品)の前に出る。ファサードは後にパッラーディオの手による。教会の中庭と庭は本当に美しい。勿論の事、入ってみたい。

教会は僧フランチェスコ・ゾルズィの理論に従って建てられた。彼は建築的、秘教的考え方の持ち主で、宇宙の均衡と調和の研究に没頭し、色々の尺度計算を“3”とその倍数に厳しく繋げて考えたに違いない。内部では現にある色々の作品の中でも、サン・マルコ鐘楼下の同名のロッジェッタのために、同時代サンソヴィーノと協力し合ったピエートゥロ・ロンバルドの一連の預言者の作品は興味深いものである。

この教会が建つ場所には、聖マルコに捧げた別の教会が存在したらしい。伝説によれば、アクイレーイアからの帰路、聖人は嵐があったためこの場所に一時避難したという。そしてここで天使の姿を見たのだという。天使は彼に向かって次にように言った。『Pax Tibi Marce, Evangelista Meus.(マルコよ、お前に平和を、我が福音書記者よ)』。セレニッスィマのモットーとして採用された文言である。
[聖マルコについては、2008.11.02~2008.11.22日の聖マルコ伝説(1~3)をご覧下さい。]
サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会[サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会、サイトから借用]  町のこの地区には、ズィアーニ家所有の広い葡萄畑があった。それが1253年シトー派の僧に遺言で譲られた。彼らはそこに修道院を建てた。そのため、San Francesco della Vigna(葡萄畑の聖フランキスクス)教会と呼ばれることになった。 ……」 (29に続く) 

長い間、ご高覧有難うございました。来年が良き年でありますよう、祈念いたします。
  1. 2017/12/31(日) 00:11:49|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:2
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コメント

四季の便り・・・

Pescecrudo様
お健やかな年をお迎えのことと思います。

十年という一つの節目もそうでしょうし、また、十二支十干いう訓もあります。
「ヴェネツィアに関する言葉・文学」(2017年10月16日)のアップで、《ブログ満10年となり、この節目に定期的(毎週木曜日)更新を終了することにしました。・・・
・・・
今後は不定期に翻訳等の日本語訓練を試みたいと思っています。・・・》と、述べられています。
 おりふしのこころのうつろいも、ブログの名に拘らずお目にかかれることを楽しみにしています。


  1. 2018/01/03(水) 02:54:44 |
  2. URL |
  3. むさしの想坊 #-
  4. [ 編集 ]

むさしの想坊様
新年おめでとうございます。
コメント有難うございました。ヴェネツィア好きが高じて始めたブログでした。
ヴェネツィアに触れた本を紹介がてら、私自身知らない事を随分学びました。
誤訳に気付いて後で訂正したことも度々です。
ヴェネツィアはアドリア海諸国と付き合いが多いので、伊語で書かれた土地の
現地名や人名を日本語等でどう言うか調べなければと、そうした作業に疲れ
始めたこともあります。
今後はいくつかある年間行事等を新聞から紹介しようかと考えたりしています。
気持ちがどう揺れるか今の処明白にならないのです。
  1. 2018/01/03(水) 15:02:34 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #RhVi/xt.
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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