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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(29): アルセナーレ近辺

(続き)
「聖フランキスクスの葡萄畑(教会―S. Francesco della vigna)――こうした事からこの町がワインとずっと深い関係を持っていたと考えると、興味津々である。既にティート・リーヴィオが古い人民Heneti あるいはEneti(即ちワインの人々)が名前をVeneti に変えたのだ、そして我々がこの飲み物と繋がっている絆について長々と語っている。通常はエーゲ海諸島やギリシアから輸入したワインが、我々の手になるワインより当時は好まれたということは興味深い。

街には名前に“マルヴァジーア酒”をうたった店の通りが沢山あったが、そこではこの酒を“grechetto”とも言い、甘口マルヴァジーア(ミサの儀式ではヴィン・サント(vin Santo)が使用される前に使われていた)とか、garba酒(辛口)とか分類された。こうした舶来のワインはカンディア(イラクリオン)やキプロスから到来したが、香味を添えるため、色々のスパイスや砂糖で味を調えた。ヴェネツィアの伝統文化の著名な研究者モルメンティによると、ヴェネツィアではこのワインは、salubri(体に良い)、stomacati(むかつくような)、cordiali(和やかな)、matricali(カモミッラ風の)、gagliardi(アルコール度が高い)、mezzani(アルコール度が並みの)、deboli(アルコール度が低い)と分類される、と。

本土側での共和国の力が拡大され、ヴェネツィア貴族の資金力の増加で、彼らの土地に好みが広がり、外国勢力の侵入が終わった後、ベネディクト修道僧達が既に活性化させていた生産をより洗練されたものとした。それ故最良のワインの生産が始まった。valpolicella(ヴァルポリチェッラ)、picolit(ピコリット)、vernaccia(ヴェルナッチャ)その他があり、ドイツやポーランドに輸出された。

ヴェネツィアでは相当量のワインが取引され(Riva del vin―ワイン河岸)、色々の組合が発生し、それには容器を移し替える人の組合、ワイン原酒販売業者組合、ワイン輸送販売者組合、ワイン小売業者組合等、結局1609年には一つの組合に歩み寄り、サン・スィルヴェーストロ広場のヴィン運河通りに近い所に本拠地を置いた。

我らがコースに戻って、再度橋を越し、サン・フランチェスコ大通りを行こう。直ぐ右にボンバルディエーリ軒下通りがある。中へ潜ると太い管の上に立つ聖バルバラを表す美しい盃が我々の前に現れる。サン・ジュスティーナ大通りに繋がる狭い通りへ行き、周りを見回すと、他にも状態の良い盃が二つ見付かる。
聖バルバラ[聖バルバラ、サイトから借用] ここには1500年代ボンバルディエーリ(砲手)信者会に所属していた人達が、自分達の住宅を建てたのだった。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会にはパルマ・イル・ヴェッキオの祭壇画に描かれた彼らの守護聖女バルバラに捧げた祭壇が作られた。共和国末期頃は町の警備隊の役を独占的に請け負っていた。

サン・フランチェスコ大通りに戻り、そのどん詰まりまで行き、左へ曲がり、更に左へ曲がってオージョ通りへ向かう。ここでsottoportico(アーチ下を通過する空間)の上の高みに目をやると、左手に大理石の古い浮彫りがある。イストラ半島出身のヴェネツィア総督フランチェスコ・エーリッツォ(1631~46)を輩出したエーリッツォ家の紋章である。
エーリッツォの紋章[ドルソドゥーロ、サローニ埋立通りのエーリッツォ家の紋章。サイトから借用]  特に1470年、エヴォイア(Negroponte)の大使であり、かのBailo(オスマン帝国への大使)であったパーオロ・エーリッツォである。彼はトルコ軍から島を勇猛果敢に守った英雄である。一度はマホメット2世の軍を破ったこともあるが、2枚の木の板の間に結び付けられ、生きたまま鋸で切断された。

これらの像に感銘を受けた心と、今や終りに近付いた長い散歩で疲れた足とにもう一度活力を取り戻すために、以前、居酒屋Alle do Marie(アッレ・ド・マリーエ) があって、sarde al peperoncino(唐辛子の利いた鰯料理)が我々を元気付けてくれたものだが、経営者と店の様子が変わってしまった。しかしパン粥は美味しい。

左のオージョ通りの方へ行き、非常に狭い通りを左のバッフォ通りと呼ばれる道の交差点まで抜けて行く(このバッフォ通りはヴェネツィア語で風変わりな、エロティック詩を書いたジョルジョ・バッフォの一家に由来する)。狭い通りの終り近くで目線を上げて欲しい。目前の館の角に普通の窓のように窓が見え、硬い壁がそれを支えている風である。しかしその裏側には何もない。本物だという印象、現状のイリュージョン、どんな町にもある館、そして多分全ては絵空事、我々が今見つつある夢、だという事を我々に与えるだけの、正にそこに置かれた絵、舞台袖の垂れ幕を思わせる。
バッフォ小広場[左、バッフォ通りの奥まった所にあるバッフォ小広場。ジョルジョ・バッフォについては2012.09.01日のピエートロ・ブラッティや2016.12.08日のヴェネツィア街案内(13)等で触れてきました。]
ヴェネツィアとは非存在なるもの! ヴェネツィアとは素晴らしい舞台の袖から成立する、偏に劇場的なるもの。ヴェネツィア人とは非存在なるもの。ともすれば、かつて存在したやも知れず。今や真に美しき夢、夢そのもの。

今やあなた達は隠された智慧に接近している。今やあなた達は秘密の庭園を、そして厳然たる現実を飛翔して行くべき門を見出すことが出来る。あなた達は最早、旅人の巧まれた餌食ではない。あなた達は自らの感覚だけを信じて行動出来る。単に見るのではなく凝視すべきなのだ。

サン・テルニータ広場に入り、スッフラージョ橋、またの名をクリスト橋を渡ると道はアーチへと続く。この単独アーチもまた、明らかに無に開かれている。よく見て御覧、あなた方の目は外観を見透かすべく鍛えられたのだ。そのアーチの向こうには海があり、恐らくそのアーチは壮麗で軽快なラグーナの水彩画に向かって開かれている、と言っていい……。過ぎ去る時は、季節の色彩のように移ろい易い。

そこはヴァポレットの停船駅であり、その持てる名前以上の名前はないであろう、即ちチェレスティーア。急行の52番線と23番線の船は右へ行き、それには素晴らしい美点がある。それはアルセナーレの中を通過する事、そこで周辺に目を凝らし、空想を自由に羽ばたかせる。夢見る思いが終わる頃にはヴァポレットはサン・ザッカリーアに着岸する。 」 (終り)

[現在はこのアルセナーレ内を通過する路線は海軍敷地内ということでなのか、無くなりました。私が初めてヴェネツィアに行った1994年には、ムラーノ島に向かうヴァポレットがここを通過したので、船上から内部を見学出来ました。]

2018年が明けました。良い年でありますように願っています。長い間、ご高覧有難う御座いました。
  1. 2018/01/04(木) 00:04:07|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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