イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(30): リアルトからザッテレ海岸通りまで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドからアルセナーレ近辺の街案内をしましたが、今度はリアルトからザッテレ海岸まで歩きます。出発は左岸(de citra)のカルボーン運河通りです[右岸はde ultra]。
Corto Sconto「ヴァポレット1番線または82番線[かつては国鉄サンタ・ルチーア駅前から82番線という急行便がありました。国鉄もトレニターリア鉄道となりました。]で、リアルト橋で下船――

このコースは魚市場休日の日、日曜日あるいは月曜日は計画から外すのが良い。
[以前は月曜日も休日だったのでしょうか。現在近くのバーカロ、ルーガ・リアルトに日曜日食事に行くと、大好きなネーロ(イカ墨パスタ)は市場休みで材料なしのため断られたりします。]

土産物等の店に囲まれたリアルト橋を上り、橋の高みから大運河を見物しよう。我々が出発したカルボーン大運河通りを左手に見れば右手はヴィーン河岸通りである。向こう岸から右岸に向かい、背後にドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)を目にしながら階段を下る。階段下で、リアルト橋を石で作るという可能性をかつて人々が疑っていたという古いお話についての興味深い各種柱頭が嵌め込まれたカメルレンギ館のファサード(ロンバルド作)を見よう。

1588~1591年と橋の建造に3年を要した事、土台作りに1万本の杭柱を埋め立てた事、工事に必要な資金(25万ドゥカーテイ)集めるのに、宝くじが始められた事を思い起こそう。

橋を後にすると、セレニッスィマ共和国の経済の心臓部、リーヴォ・アルト島に入る。ここにはかつて、両替屋やあらゆる国の商人がいて、信じがたい量の商品を相互に商っていた。フランドルの布地からショールや衣類、絹のカーテン、オリエントの香水・香油、麝香、サンダルやあらゆる香料まで、また高価な物には胡椒(中世には黒い金と考えられ、貨幣代わりに使われたこともある)からナツメグ、丁子、生姜、肉桂、樟脳、サフラン、カイロのアヘン、アヘンチンキ、赤い根のアカネ属の染料、またセラックと明礬は布類の染めを定着させるための物質。

アーケードの下の通りには、貴金属商や宝石屋があって、ペルシャのトルコ石、インドのエメラルド、アフガンの水晶や青金石、ルビー、サファイア、紅玉髄、黄玉、ダイヤモンド、そして人は所持すればするほど、出来るだけ身に付けたがるものであり、石に魔術的、治療的効力がある事を忘れはしないのだ。

こうした利点に加えて、野菜や果物、魚、鳥籠に入れた鳥を付け加えよう。即ちこの今、歩き回るのはどんな意味があるのか? 色んな意味でパーティーやお祭りがある。かつて知られていなかった色や芳香があっちこっちから到来するのである。

現在でもここは、ヴェネツィア人の最愛の市場として活気に包まれ、屋台の全域に渡って住民達が押し合いへし合いしている。観光客も興味津々で溢れ返っている。自分の行く手をこれぞという方角には決めにくいもので、先ほどの館の右へ行くと、ヴェネツィアで最古と思われる聖ヤコブス(Giacomo)に捧げた教会、サン・ジャーコモ教会の前に出る。最初に人々が居を定めた5世紀頃(リーヴォ・アルトに)、その時代、初の建設になるという。
アル・メルカ[野菜市場のバール――何年か前、ここアル・メルカの前に位置していた野菜市場の前にあった裁判所がテロで爆破され、以来野菜市場は更に奥のペスケリーアの脇に移りました。写真で見るように店内にはお客は3人はぎりぎり立てます。しかし夕方暗くなると立ち飲み客が何十人とこの店前の広場で飲むことになります(夕食前なのでアペリティーヴォ時間とかスプリッツ・タイムなんて言ってました)。知り合ったバーテンのフランチェスコはてんてこ舞いで、グラスを割っていました。勘定をどう処理するのか凄く興味がありました。ローマ等と異なり、勘定は後でというヴェネツィア流作法が今でも生きているのだとか。]

現在の建物は11~12世紀に遡り、続く年に何度か修復の手が入ったが、初めの建物の姿の変更はなかった。ファサードには大きな時計(1410年作)が、あの時代古い教会ではよくそうであったようにゴシックのポルティコの上を飾っている。教会前には布告用の柱があって、リアルトのゴッボ(佝僂(せむし)―Gobbo di Rialto)と呼ばれる階段を支える彫刻がある。……」 (31に続く)
gobo de Rialto[写真、サイトから借用] 『  リアルトのゴッボとは?
1291年コゼンツァ(Acri)からヴェネツィアに持ち帰られた低い斑岩の“柱”である。頂上の低い小さな階段であり、罪の宣告文や追放刑に処された市民の一覧表を告知したりする報道伝達官の役を持つ、弓なりになった彫像の階段で、普段見掛けない姿のため、ヴェネツィア人は Gobbo(ヴェネツィア語でゴーボ、el gobo de Rialto)と呼んだ。

中世には、盗人は罰せられて、鞭打つ人々の間を素裸でサン・マルコ広場からここリアルトまで歩かされた。ゴッボの柱は最終目的地で、柱に到着すると犯罪者達はお互いに抱き合い、彫像に接吻するという苦しみの最後を締め括る場所だった。 

1500年代半ば、柱に聖職者や国の品行の堕落等を批判する辛辣な詩や中傷文書がぶら下げられた。マドンナ・デッロルト教会傍のモーリ広場の“Sior Rioba”と共に、ゴッボはヴェネツィア人の“Pasquino(パスクイーノ)”となった。』 
[“Pasquino”はローマの、現在パスクイーノと呼ばれる広場に立つ古代ローマ時代の1501年に発掘された彫像で、この像に落首の形で批判文書がよく貼られたそうです。]                                                                                                                            
  1. 2018/03/18(日) 23:50:10|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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