FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(32): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
『Calli, Campielli e Canali』 の地図Rialto4Rialto3
大運河の 右岸区域Rialto5Rialto2Rialto1
Rialto9Rialto6サント・ステーファノ広場
Rialto8Rialto7「進行方向に戻って、大運河を背に左へ曲がり、ボテーリ通りの端まで行き、そこで右へ折れカランパーネ埋立通り(rio terà)を通過し、同名の通り(ramo)を進み、左タモッシ通りへ曲がり、[rioに突き当たるので]更に右フラートラ(惣菜屋の蔑称)と言う魅力的な軒下通りである運河通りを進もう。
[carampane/aは伊語の“身形のだらしない女”の元になった言葉で、2008.06.27日のカランパーネ埋立通り等で触れています。]

この道の半ばで右へ、この町で最も狭い通りの一つ、ストゥレッタ通りへ曲がると1600年代のアルブリッツィ館のある同名の広場に出る。次世紀になると非常に豊かになった建物である。内部は良く保存されていて、1700年代の最も豪華な建物の一つとしての例証がこれである。気付くのは、三層になった素晴らしい煙突で、色々な様式で我が町の屋根を飾った独特の建造物の事を思い出させてくれる。
[このストゥレッタ(狭い)通りを含めて、ヴェネツィアの狭い通りを調べに歩いたことがあります。2008.09.21日の狭い通りで書きました。ご参考になれば。]

左のアルブリッツィ館を後にして同名の通りを進み、左へ走るカランパーネ埋立通りを行く。この区域はセレニッスィマが1360年から遵守さるべき規範として全娼婦を集めようとした、所謂“Castelletto”(リアルトのサン・マッテーオ教区)の建物に、強制的に収容されることを毛嫌いした娼婦達が集められた地域である。事実、時代と共に町の至る所に散らばって行くことになる。

その上、オリエントからやって来たSodomia(男色)の流行に直面した。共和国は娼婦達の存在に勇気付けられることとなり、夜彼女達が明るいランタンで照らされた戸や窓に、身も露な姿を男達に見せるように命じたのだった、ヴェネツィア男子の下落した男らしい熱情を取り戻させようと。これ故埋立通りの角を曲がると、テッテ(ヴェ語Tete―乳房)という興味深い橋がある。自然の摂理に反する悪徳ということで、セレニッスィマはこのこうした罪を威嚇するためサン・マルコの2本の柱の間で同性愛者を絞首刑にし、それでも不十分とばかり、死体を灰塵に帰すまでに焼き尽くした。
Tete橋[乳房橋――国民皆兵の共和国は男子の出生率の低下を殊の外恐れたようです。ガレー船の漕ぎ手に囚人を使ったりするようになるのは時代が下ってのことでした。乳房(ヴェ語“テーテ”)橋については、2017.08.10日の『書物の夢…』が参考になります。かつてのこの赤線遊郭の雰囲気を描いた映画がありました。『薔薇の貴婦人』というマーウロ・ボロニーニ監督作品で、2008.07.20日にヴェネツィア映画で触れています。]

この小さな橋の上で左を見ると、中空に金属の橋が見える。それはアルブリッツィ館とかつて運河の向こうにあった新カッシアーノ劇場を結ぶものである。
[新カッシアーノ劇場については、2008.06.20日の世界初、オペラ劇場をどうぞ。その跡地が現在アルブリッツィ館の庭園となっています。]

直ぐ右をストゥーア運河通りの方へ行く。更に左の軒下通りを潜るとストゥーア小広場へ入る。独語のstubeから来た stua(伊語stufa)は公衆浴場のことで、そこでは体を洗い、魚の目の治療をしたり、町での流行病(はやりやまい)のための軟膏を貼ってもらったりした。そして多くの場所が直ぐに淫売宿と評判になった(stuer(伊語stufaiolo―公衆浴場主)は学校では外科手術者と関連ありと見られている)。
[ストゥーア小広場は私が3ヶ月語学校に通うために借りたアパートがあったので非常に懐かしい地域です。2008.07.04日にストゥーア小広場を書きました。]

結局今見てきたように、これらの地域は正に最下層の赤線地帯だったのであり、現在でもヴェネツィア弁で“vecia carampana”は鬼婆、糞婆を意味する悪罵の言葉である。このよく知られた地域は、日本のgeishaとも考えられる、洗練された高級娼婦(cortigiana onesta)の世界と対比される。 」 (33に続く)

[日本の芸者さんは花魁などが主役の宴席に侍ったり、酒席で芸事をするアーティストであって、決して娼婦的な存在ではありません。明治時代の文化のない下級武士が政治屋に成り上がり、《芸者遊び》とかの言い方で吹聴したことが、外国に歪に伝わってしまったに違いないのです。語学学校の授業中、芸者の事が話題になり、単語の蓄積がなく芸者さんと花魁の区別を伊語でうまく説明出来ませんでした。我が町八王子の芸者さんは町興しの一端を背負っています。] 
  1. 2018/03/26(月) 17:30:43|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0
<<ヴェネツィアの現在: Actvの運航時間の変更 | ホーム | ヴェネツィアの街案内(31): リアルトからザッテレ海岸通りまで>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

11 | 2018/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア