イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(34): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ピッツェリーア(ピッツァ屋)傍のサーヴィオ橋に向かってここを離れ、サーヴィオ通りを抜けるとレストラン“Antica Beseta”の前に出る。その傍のオルセッティ(小熊)通りへ至る狭い通り[Rm. de Zusto]を行く。先ず右折し、続いて左折し、ラルガ・デイ・バーリ[Da baro(賭け事用の意)、開かれていない場所、あるいは賭博師に出会う場所の意]通りへ抜けるガリオーン通りへ行く。この近くにジャマイカ音楽を流しているジェラート屋さんがあって、ジェラート以外にも、ジャマイカ音楽についての貴重な情報を提供してくれる。
[狭隘な通りRm. de Zusto(ズースト通り)について、2008.09.21日の狭い通りで触れました。]

クローチェ通りへ向かって右折し、マリーン運河に出た所で左折し、マリーン運河両側に並行して走る対岸の運河通りに架橋するカッペッロ橋を渡る。左手方向僅かの所に小さなオステリーア(居酒屋)“Ai Postali”がある。この魅惑的な運河通りを進み、橋の向こうにこの町で最初のインド料理の店“Shri Ganesh”がある。

マリーン運河通りを進み、右折してオージョ又はカフェティエール(オリーヴ油、又は喫茶店主)通りへ。左手の小さなCorte(庭程度の小広場)、カルデレール(鋳掛屋)小広場に気付いて覗いて見ると、そこの地面には煉瓦が敷き詰められ中央に井桁がある。

そのまま通りを右手の小広場の所まで進むとその入口の門構えが素晴らしい。ピエートゥロ・ロンバルドの作品であるサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大同信会館小広場である。この建造物全体は1400年代の初期のもので、この世紀末に色々な手が加えられた。中でも1481年のロンバルドの物はその美しいアーチが、ゴシック最盛期の建築にルネサンス調に色を添えている。
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ[写真はサイトから借用] この大同信会館の基礎は1261年に遡る。初めサンタポッリナーレ教会内に礎が出来、福音史家聖ヨハネの同信会館は隣接した救護所として現実の建物がここに建てられた。内部は、マーウロ・コドゥッチ(1498年)の2本の階段を備えた美しい大広間が目に着く。その階段は1727年ジョルジョ・マッサーリが改築した2階へ通じている。2階には町でも最古の同信会館の一つであるこの館を飾るヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの色々の絵画が鑑賞出来、信者の中でも高貴なるスペイン王フェリペ(Filippo)2世の来駕を誇っている。

このエレガントな建物を後にして、この道を更に進み、共和国の古文書館前のサン・トマ埋立通りまで行く。この古文書館には9世紀からセレニッスィマ共和国が崩壊させられる1796年までの史料が蒐集されている。

左折し、右のサン・スティーン橋を渡り、フラーリ運河通りを行く。橋の向こうには威風堂々の教会が聳えている。橋の手前に“Caffè dei Frari”がある。内部は2階が張り出し回廊構造で、休息に絶好の空間である。
[このカッフェには1996年以来ヴェネツィアの右岸を歩く時は必ず寄りました。1階・2階があるカッフェで、2階は吹き抜け構造で上から1階が覗けます。そんなこんなで店主のジョルジョと知り合いました。近年彼は店を手放し、暫く会えないでいると、リアルトの“アンティーカ・ルーガ”でバイトで週一カウンターに立ち、結婚して子供が生まれたと写真を見せて呉れました。街歩きのおしっこタイムは右岸(De Ultra)ではここのCaffè、左岸(De Citra)ではフェニーチェ劇場隣のバール“アル・テアートロ”だったのですが、トイレが本当に綺麗で女性に推薦出来ました。]

Frari(伊語Frati)としてよく知られた聖フランチェスコ会派の重要なる教会は、その前に存在した教会の場所に1335年に始まり、より少し小さいものが完成し、1492年献堂された。ヴェネツィア・ゴシックの大いなるお堂として、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会とが代表しており、両者が総督や傭兵隊長、共和国の抜きん出た人物の墓所の役を共有している。
[この教会について、2017.10.25~11.09日のヴェネツィアのパトロネージ(1~3)で触れています。]

この壮麗な建造物の内部には、2点のティツィアーノ作品(『被昇天の聖母マリア』『カ・ペーザロの聖母』)、ジョヴァンニ・バッティスタ・デル・ドナテッロの多彩色の素晴らしい木彫、バルトロメーオ・ヴィヴァリーニの多翼祭壇画、聖具室の忘れられないヤーコポ・ パルマ・イル・ジョーヴァネ作品とジョヴァンニ・ベッリーニの三幅対祭壇画の大作がある。

葬儀のモニュメントの中では、アントーニオ・リッツォのルネサンスの大作である総督ニコロ・トゥローンのもの(1473年)、サン・マルコ寺院の著名な楽長であり、聖歌の重要な革新者であったクラウディオ・モンテヴェルディの墓、ティツィアーノの酷い墓、アントーニオ・カノーヴァのピラミッド形の墓、元々はヴェチェッリオ(ティツィアーノ)のために企画されたものであった。
[モンテヴェルディの墓は正面最左翼のカッペッラの鉄格子から内部床を覗くと真中に視認出来ます。]

その少しだけ開いて、落ち着かない風情のポルティコは我々を招き寄せるような、そしてポッサーニョ生れの大彫刻家の心臓を斑岩の壺の中に収めているのである。しかしかのコルト・マルテーゼを更に魅了したのは、スペインの血が流れているため、聖具室に教会の聖遺物を潤沢に収集して、バロックの展示場となった壮麗な大祭壇であった。その前には寓意的な絵が描かれた素晴らしい時計もある。

教会中央部には僧達の木製の聖歌隊席(124席)があり、マルコ・コッツィ作(1468年)の魅惑的な嵌め木細工で飾られた扉が付いている。 ……」 (35に続く)
  1. 2018/04/06(金) 22:39:14|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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