イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ボローニャのモーツァルト

ボローニャに行ってきました。ボローニャに行って是非とも見たいと思っていたのは、アルキジンナージオにある解剖教室(Teatro anatomico)でした。かつての大学の建物には、図書館等が入っています。解剖教室はその一角にありました。

第二次世界大戦中の爆撃で建物が破壊され、解剖教室は戦後再建されたようです。世界初の人体解剖が行われたこの教室の造りは、パードヴァ大学の人の眼を集中させる造りとは異なり、広く明るく開放的でした。

ボローニャに行くに当たって、井上ひさし著『ボローニャ紀行』を読んで行きました。その一番のお勧めに従えば、サン・ドメーニコ教会は必見です。

教会右側廊の中央の聖ドミニクス礼拝堂には、ミケランジェロ・ブオナローティが若かりし頃に刻んだ小さな天使像が右祭壇にありました。この礼拝堂はとても奇麗で素晴らしく、訪れる人が引っ切り無しです。ミケランジェロの天使を見ている間、ここだけに顔を出して帰っていく人も多いように見受けられました。
井上ひさし『ボローニャ紀行』井上さんの本の中の、主祭壇の聖歌隊席の記述の直ぐ後「そして片隅には……」と、14歳のモーツァルトが弾いたオルガンがあると書かれていたので、プレートか何かないかと探しましたが発見出来ませんでした。オルガンのパイプは主祭壇両側にあります。

その足で左側廊中央のロザーリオ礼拝堂(聖ドミニクス礼拝堂真向い)にも入ってみました。ここにも両側にオルガンのパイプがあり、その下にプレートが掲げられ、何やらラテン語で書かれています。右端下に伊語のプレートがあり、最後に次のような事が書かれていました。
モーツァルトについて「……若き神童W.A.モーツァルトが1770年ボローニャ滞在中、その有名な礼拝堂を訪ねたのは偶然だったのではなく、伝統に従い聖歌隊席の新しいオルガンを弾いてみたいと望んだからであった。……」

その時偶々通り掛かった白い僧服の神父(?)さんに、このオルガンをモーツァルトが弾いたのですか、と問うとそうだとおっしゃいました。
イタリアのモーツァルト『イタリアのモーツァルト』(グリエルモ・バルブラン編著、戸口幸策訳、音楽之友社、昭和53年5月15日発行)によれば、ヴェーネトの天才的オルガン製作者ピエートロ・ナッキーニが、モーツァルトのこの教会訪問の10年程前、このオルガンを作ったとあり、それは祭壇の側面の聖書奉読台にある、と書かれていることから、それは主祭壇のオルガンの事のようです。モーツァルトは両方のオルガンを弾いたに違いありません。

この『イタリアのモーツァルト』によりますと、モーツァルト父子が滞在したのは、ボローニャ郊外のクローチェ・デル・ビアッコ村にある、大変世話になったジャン・ルーカ・パッラヴィチーノ伯爵の別荘だったそうで、伯爵にはヴォルフガングと同い年の息子ジュゼッペがおり、彼はジャンバッティスタ・プレディエーリについてピアノを習っており、少年達は直ぐに仲良しになったそうです。

そんな2人の事を映画化したものがあり、モーツァルト没(1791)後200年記念行事の一環で、1990年に一般公開されたプーピ・アヴァーティ監督の『モーツァルト 青春の日々(Noi tre)』です。この2人の少年の間に1人の美少女が配され、少年少女の淡い恋物語(ほのかな eterno triangolo)が、煙るエミーリア・ロマーニャの田園風景で展開します。思い出す度に、しみじみとした、ほのぼのとした気持ちにさせられます。
『モーツァルト 青春の日々』の入場券から[映画の入場券から] モーツァルトの痕跡はヴェネツィアにもあります: サン・マルコ広場のプロクラティーエ・ヴェッキエの一番コッレール美術館寄りの建物下を抜けると、沢山のゴンドラが舫っているオルセーオロのゴンドラ溜まり(Bacino Orseolo)があります。運河沿いのオルセーオロ運河通りを最初の橋(P.Tron)まで行き、左に曲がると直ぐに賑やかなフレッツェリーア(Frezzeria)通りに突き当ります。そのT字路を右に曲がると道は直ぐに左に90度折れ曲がります。そのまま直進するとバルカローリ(Barcaroli)橋に出ます。
モーツァルト記念碑この橋の袂、左の角の建物の運河側に次のような碑文が掲げてあります。「この家に客人として15歳のモーツァルトが、1771年のカーニヴァルの期間楽しく滞在した。ヴィヴァルディとゴルドーニの街は、音楽的天才と18世紀的優雅さを純粋な詩として高めたザルツブルク(Salisburgo)の少年を、ここに記念したいと思う。200年記念日(1971年)、ヴェネツィア市」

この碑文が掲げられている館は、父レーオポルトの精確を期す旅行手帳には《リーオ・サン・ファンティーノのバルカローリ橋のカヴァレッティ(Cavaletti)邸》と記されているそうですが、古文書調査によるとその名は存在せず、《チェゼレッティ(Ceseletti)》家の邸宅だったと前掲の『イタリアのモーツァルト』は述べています。

私の利用している地図は、このサン・ファンティーン(旧教区名)運河をバルカローリ運河(Rio dei Barcaroli)と記載しています。
  1. 2008/12/13(土) 00:34:32|
  2. 音楽
  3. | コメント:2
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コメント

ペッシェクルードさん。こんにちは。
一昨年(2007年の秋)アルキジンナージオの解剖学教室で、同行の女性が階段から足を踏み外して、くじいてしまい、大変でした。ボローニャには2週間滞在しただけですが、ローマやフィレンツェみたいな大きな町を選ばなかったのは成功でした。ブログ、時間をかけてゆっくりと読ませて頂いてます。
  1. 2009/01/02(金) 06:28:51 |
  2. URL |
  3. September30 #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

September30さん、コメント有難うございました。
ボローニャは人情の厚い街の印象でした。通りすがりの人に道などを尋ねても、
simpatico な人柄が直に伝わってくる感じです。ですから”食の街”での食事は大変
心地いいものでした。かつてフェッラーラ近郊出身の伊語の先生に教わっていた時、
ボローニャで働いていた彼の友人が、転勤でトリーノに越したので、「お前は伊国
から外国に行くんだ」と言ったんだ、なんて言っていたのを思い出します。
  1. 2009/01/02(金) 06:48:27 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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