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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(39): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドでリアルトからザッテレ海岸までの街案内をしましたが、今度はアッカデーミア美術館からジュデッカ島まで歩きます。出発は右岸(de ultra)のアッカデーミア橋です。
Corto Sconto 旧、鉄製アッカデーミア橋現在のアッカデーミア橋[中、鉄製の旧橋、右、現在の木製の橋] 「橋上から素晴らしい景観を楽しめる木造の大橋を降りよう。この橋はかつて鉄製で、町で遭遇する全ての鉄製の橋と同じく、オーストリア人の占領時代、彼らによって造られた。橋前にカリタ大同信会館(scuola)があり、それは貧者援助に捧げたスクオーラで、ヴェネツィア最古(1260年)であり、6大同信会館のうち最重要なものであった。今日、アッカデーミア美術館の在所で、美術研究所(アカデミー)が創設された(1750年)後、1807年創立された。美術アカデミーは脇のゴシック式大門のラテラーノ司教座聖堂参事会員修道院内に設置されている。
[2005年頃、美術館は長い間工事中でした。美術アカデミーをインクラービリ館に移し、展示室数を増やすという話でした。下掲のパンフレットは工事前の物ですので、今や装丁は変更になったことでしょう。美術館の前身については2010.04.24日のアッカデーミア美術館で、同信会館については2012.10.27日のカルパッチョ(4)で触れました。]
『アッカデーミア美術館』カタログ 元インクラービリ養育院[左、アッカデーミア美術館図録、右、現在美術アカデミーはインクラービリ養育院に移りました]  人は全世界の区々のコレクションの中でも失われてしまった素晴らしいあらゆる財産に対してノスタルジーを抱くのだが、この蒐集された絵画作品を鑑賞しようとやって来る、文化参観の生徒達の行列が、譬えなかろうと参観の価値はあるのである。ここで我々は絵を愛で、美的センスを学ぶ。これこそ全ヴェネツィア絵画を特徴付けるものである。

その名はベッリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、ティエーポロ、カナレット、グァルディであり、大運河の日々の生活を描いた、以前にも触れたことのある絵画、我らの大のお気に入りの作品『十字架の聖遺物の奇跡』と共に聖ウルスラ(Orsola)に捧げた、ヴィットーレ・カルパッチョの一連のずば抜けた作品群である。
十字架の奇蹟[カルパッチョ画『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   一般的に言って、芸術について他の地方で起きた事と異なって、ヴェネツィアでは詩歌は花咲かなかったと記憶されているのは興味深い。1400年代末、全ヨーロッパのどこの地よりも数多く、書籍が印刷出版されたのであり、実用に供する実際的な現代の書籍を発明したのは歴史的事実である。しかし1700年代のデカダンスも知って欲しい、ゴルドーニ、ゴッズィ、バッフォ、ダ・ポンテがいた。
[ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの3大詩人はフィレンツェが育てたのですが、書籍については今まで色々に触れています。次のブログ2011.06.11日ヴェネツィアの印刷・出版(1~4)等他もご参照下さい。ゴルドーニやバッフォ等についてもあちこちで触れました。]

ヴェネツィアでは、映像、造形美術、建築、モード、そして風景を支配し、全てを現実の汎神論的ヴィジョンで包む色と光が常に支配していた。人間とそれを取り巻く自然は比類なく不思議なハーモニーで溶け合った。例えばジョルジョーネの『嵐』の中で、左の兵士を見ると、彼を包む風景の繁茂した葉群と彼は不思議と溶解し合ったかのように見える。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館ジェンティーレ・ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』veronese-レヴィ家の饗宴[左、ジョルジョーネ『嵐』、中、ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』、右、ヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』(サイトから借用)]  しかしこの絵の傍に立てば、ピアッツァ広場を正確にリアリスティックに描いたジェンティーレ・ベッリーニの『サン・マルコ広場の祝祭行列』(1496年)とそれに命を吹き込んだ人間性、そしてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会のドメニコ会士の修道院食堂に最後の晩餐として描かれたが、検邪聖庁裁判で検閲され、芸術家の自由の保護に関しては嘆かわしい結果の後、若干の変更、『レヴィ家の饗宴』と題名を変えた絵画、ヴェロネーゼの巨大な《晩餐》を見るにつけ、ヴェネツィア絵画の合唱のような局面が思い起こされるのである。
カナの[ルーヴル美術館にある『カナの婚礼』]  もう一つの絵に関して次の事を思い起こそう。サン・ジョルジョ教会の食堂に置かれた巨大画布(その部屋は正にこの絵が置けれるように設えられた)は、ナポレオンによって強奪され、現在はパリのルーヴル美術館にあり、移動すると壊れるという言い訳で未だ返還されていない。
[パリでこの絵を見た時は、感動よりも腹立たしさが先に立ちました。ヴェネツィアと長年争っていたジェーノヴァの持ち物だったコルシカ島(現、仏語Corse)生れのナポレオン(Napoleone)に略奪された絵です。またニッツァ(現ニース)地方等もナポレオン3世の要求で、イタリア統一を認める代償に、カヴールはフランスに割譲せざるを得ませんでした。私のフィレンツェの友人は測量士で、伊国建国150周年記念の会に招かれ、国が作ったA全版のイタリア地図(会の記念品)に興味があるだろうと、送ってくれました。その地図は世界地図と異なり、コルシカ島もニッツァも空白になっています。見る度に不思議な感慨があります。]

この美術館を後にして、右折して橋近くまで行き、更に二つ目の通り(ノーヴァ・サンタニェーゼ通り)を右へ折れ、その通りを越す(ここの左手に有名なフリウーリのスリッパを見ることが出来る)。右手にピッシーナ・ヴェニエール、その先にピッシーナ・サンタニェーゼの通りがあって、泉の前にマドンナの家があり、1630年猖獗を極めたペストの恐ろしい発生を思い出させる家のファサードが顔を出す。

ノーヴァ・サンタニェーゼ通りを橋まで、更にサン・ヴィーオ広場まで進む。運河通りにレストラン“Cantinone Storico”がある。キエーザ通りを進むと終り近くにマルチグラフの工房ギャラリーがあり、そこでフーゴ・プラットの2枚のグラフィック・ポスターが誕生した。1枚はイギリスの手榴弾兵を扱ったものであり、もう1枚はコルト・マルテーゼのものであった。 ……」 (40に続く)
[サン・ヴィーオ広場に渡河する橋サン・ヴィーオ橋の左手に、近年チーニ財団所有の絵画作品を展示するチーニ美術館がオープンしています。景観画等が展示されており、パンフレットを買ってみました。]
Vedutismo ヴェロネーゼの家[右、ヴェロネーゼの家(サイトから借用)――私がヴェネツィアで語学留学を3ヶ月に渡って初めてしたのは、大運河に面した旧モチェニーゴ館のアパートを借りてのことでした。館の脇門からモチェニーゴ・ヴェッキア通りを抜け、サン・サムエーレ大通りに出ると直ぐ左の3337番地の建物に次のようなプレートが掛かっていました。《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimorò/ lungamente in questa casa e vi/ morì. IL XIX APRILE MDLXXVIII》。この家に、ヴェロネーゼが長い間住み、ここで亡くなった事を知りました。以来毎日、前を通る度に見上げたものでした。その故か、この辺りは画廊など絵画関係の事務所も多い区域と聞きました。当然彼の檀那寺サン・セバスティアーン教会にも行かねばなりません。]
  1. 2018/06/21(木) 03:56:54|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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