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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(42): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「陸地から届く商品のためには、2番目の税関がリアルトに設置された(この運河通りの終りの末端にサン・マルコと繋がるトラゲットの渡し場がある)。岬突端に到着すると眼前に美しいパノラマが展開する。絵葉書用には過ぎたものに違いない。しかし疑いなく、肩越しに素晴らしいものがあり、上を見れば二人の巨大神アトラースに支えられた黄金の玉がある。その上の運命の女神が風見となってバランスを取っている(ベルナルド・ファルコーネの作品)。
[以前この岬に白亜の“蛙を持った少年”像が立っていましたが、市民多数のヴェネツィアには相応しくないとの声で撤去されました。その時のニュースが、2013.03.22日の蛙を持った少年です。谷口ジロー画の漫画『ヴェネツィア』(双葉社刊)はその少年像の立つヴェネツィアを描いた貴重な物です。2017.03.16日のマルコ・ポーロでこの本について触れました。]
地図地図―5
地図ー2地図ー3地図ー4右へ回り、ジュデッカ運河沿いに進む。少し行くとブチントーロ櫂漕船協会の在所である。ここの前の一つの船に、経済的危機に陥った詩人コルヴォー男爵が眠っている。
墓地地図[コルヴォー男爵については、2009.06.06日のウィリアム・ロルフをご参照下さい。猶、彼の墓はサン・ミケーレ島にあります。墓地で頂いた地図には右端にRolfeとあります。]

太陽の下、長いこの散歩道を前進する前に、盛夏、コルトがこの散歩道を通過するのは好きではなかったことを思い出しておこう。彼には霧や夕闇の中で、ここから独り冒険的な歩みを繰り出す方が好ましかった。事実彼は明白に太陽型の人物だったが、夏の午後の蒸し暑さは耐え難く、太陽はここでは朝から晩まで彼を容赦なく打ち据えるのだった。

その上この運河通りの“Zattere”という名前は、彼に『塩辛い海のバラード(Ballata del Mare Salato)』の始まり、炎天下、海に繋がれた監獄を思わせる、あの"zattera"を思い出させたのだった。
[ザッテレ海岸通りのザッテレ(単数はザッテラ―筏の意)は、ヴェネツィア共和国の北部カドーレ等で切り出された木材をピアーヴェ川を筏に組んで下し、この海岸で陸揚げしたことがこの名の由来になったのだそうです。前回紹介したサルーテ教会の礎を支えるために地中に打ち込まれた支柱は森のような数の柱でしたから、毎日夥しい数の支柱が荷揚げされたことでしょう。]

コルトは確かに熱国アフリカを愛した。とある美しい庭園の木陰は、コルドバ(Cordoba)やマラガ(Malaga)、ジブラルタル(Gibilterra)にもありそうな芳香馥郁たる香りに満ち、またアイルランドの光と緑に満ちた爽やかさであり、新鮮な甘露たる飲み物を味わいながら、また別の海岸を夢見るのである。

我らが主人公はどこでも寛げるかのような気分を与えてくれる。しかし何か覚束無いような感覚があって、どんな所であろうとそこに居合わせたいとばかりにこの地から彼を待つ人の居場所に出立する。

この通りを進もう(春秋の爽やかな朝であることを願おう)。古い塩倉庫の脇を行く(倉庫はビエンナーレ会場として何度か使用されたことがある)。カ・バラ橋を越えると、また別の秘所を見ることになる。橋の名前はヴェネツィアに到来したことのない、あるバラ家に由来するものでも、近くにあった"baccalà(塩漬け乾燥鱈)"倉庫でもなく、“cabala”に由来する。この橋から右へカ・バラ運河通りを行くと米詩人エズラ・パウンドが50年に渡って住んだ通り[最初の右のクェリーニ通り]がある。[cabala=ユダヤ教に基づく神秘論で、中世に南仏、西国のキリスト教思想家に影響を与えた。また数字、文字等による占い、の意]
エズラ・パウンドの碑[エズラ・パウンドが住んだ家については、2015.08.06日の文学に表れたヴェネツィアで書きました。彼については、2010.08.17日のエズラ・パウンド(1)~2013.01.05日のエズラ・パウンド(3)で触れています。更に塩倉庫は現在、2009年頃エミーリオ・エ・アンナビアンカ・ヴェードヴァ財団の美術館となったそうです。未見です。]

秘密が明かされて、光を帯び始めたこの地域から、スピーリト・サント同信会館まで進もう、そこからスクオーラ通り、その先のモナステーロ通りに入り、サン・ヴィーオ埋立通りまで行く。左折し、ヴェーチャ小広場まで行くと、銃眼のある美しい大きな門が前方にあり、通り終り近くにもう一つの大門のあるサビオーン小広場が開けている。

角の家の前の高みに、格子に収まった美しい十字架があり、その上部にビザンティン渡来(6世紀)の半月形の浮彫りがある。更に貝殻飾りの下に置かれたクリスト・リゾルトの角にある、二番目の彫刻(1681年)のあるプリーモ・アッリ・インクラービリ通りへ左折する。

小広場を斜めに突っ切り、左折すると、ドゥリーオ・アッリ・インクラービリ小広場で、壁面に少々色あせたジュデッカ島のフレスコ画がある。旧インクラービリ養育院に沿った気持ちのいい通りを行くと、ザッテレ運河通りへ出る。病に苦しむ貧しい女達のためのこの1500年代の収容所は、その後未成年者の教育施設に充てられ、現在は何年も倉庫に眠っているアッカデーミア美術館の絵画作品展示用に改築中である。
ex ospedale元インクラービリ養育院[左のインクラービリ養育院(サイトから借用)については、2013.08.03日のインクラービリ養育院で詳しく触れました。現在、美術館の更なる展示場になるのではなく、アッカデーミア美術学校の方がここへ引っ越しました。]

更に道を進み、カルチーナ橋を渡越して右に、1877年英国のジョン・ラスキンが滞在したカルチーナ荘が見える。更にその先にヴェネツィアののらくら者達に非常に愛されたジェラテリーア・バールがある[ここニーコのジェラートは大変美味しいです]。 ……」 (43に続く)
[ラスキンのカルチーナ荘については、2012.07.14日の文学に表れたヴェネツィアで、彼の著作については、2012.07.21日のジョン・ラスキンで触れています。]
  1. 2018/07/12(木) 02:07:41|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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