イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

サンタンジェロ劇場

古モチェニーゴ館通りからリアルト市場に向かう時、サン・サムエーレ大通り(Sz.S.Samuele)からピッシーナ通り(Rm.di Piscina)、サン・サムエーレ橋を渡り、ナリージ運河通り(Fdm.Narisi)を行くと、アルベロ小広場(Corte de l'Albero)に出ます。

この小広場の大運河に面したサンタンジェロ劇場(Teatro a S.Angelo)運河通りにある貴族のカッペッロ=マルチェッロ家の土地に、1676年ヴェネツィアで唯一大運河に向いた劇場が建てられました。大運河に面していたとはいえ、1828年の新聞によれば、剥き出しの壁面に小さな窓が少数あるだけで、中央に正門、左側に脇門があるだけだったようです。

この劇場の最初の興行師フランチェスコ・サントゥリーニは中産階級の出でした。ヴェネツィアの有力貴族達からボックス席の未払いの席料を徴収出来ない困難の中で、料金を激しく値下げして完売を目指しますが、影響を恐れる他の劇場主から非難されます。

1713年からアントーニオ・ヴィヴァルディが協同の劇場支配人となります。'39年までに彼が作曲し、上演したオペラは18にも及び、その中には『ダレイオス王の戴冠』(1717)、『狂乱のオルランド(アリオストの詩より)』(1727)、『ファルナーチェ(ボスポロス国王ファルナケス2世のこと?)』(1727――大成功を収め、再演されたそうです)、『オリンピーアデ(オリンピック競技会)』(1734)等があるようです。

1720年ベネデット・マルチェッロがヴェネツィアのオペラ界裏面を面白可笑しく風刺した本『Il Teatro alla moda』(『当世流行劇場――18世紀ヴェネツィア、絢爛たるバロック・オペラ制作のてんやわんやの舞台裏』小田切慎平・小野里香織訳、未来社、2002年4月25日発行)を無署名で発刊しました。
『当世流行劇場』『当世流行劇場』図版大扉には、現代人には分からなくても当時の人には明白な内容で、サンタンジェロ劇場に関わった色々な人物についての風刺的言及が暗示的に示されており、特に揶揄の対象になっているのは、司祭帽を被り、片足で拍子を取りながらヴァイオリンを弾き、船の舵を取っている天使で、Prerotesso Aldiviva が Prete Rosso Vivaldi の字句転綴(anagramma)したものであることから、当時カッペッロ=マルチェッロ家の土地に7年間の貸借契約で建てられた劇場の土地が、期限切れになっても返却されないので、裁判に訴え、その相手を茶化していることから作者の名前は直ぐ知れたようです。

いずれにしても、この書は18世紀のオペラの上演に関わった全ての人々、台本作家から劇場売店の主人に至るまで、その大雑把な行動を揶揄したもので、当時の劇場の習慣や裏面等を知るための有力な史料だと言われています。

ヴィヴァルディがよく連れて歩き、彼のオペラにも数多く出演した(14作品だとか)アンナ・ジロは、マントヴァ出身のため《マントヴァーナ》とか《ラ・ジロ》と呼ばれ、1724年サン・モイゼ劇場でヴェネツィア・デビューを果たしました。彼との出会いはマントヴァで、1718~20年頃彼がマントヴァのヘッセン・ダルムシュタット辺境伯の礼拝堂楽長をしていた頃とされています。
[彼が教えたピエタ養育院の娘達は舞台に立つことはおろか、独立したプロの音楽家になることも出来ませんでした。]

そのアンナが住んでいた建物は、この劇場の左側にある道を挟んだ劇場小広場(Cpl.del Teatro)前の建物(現在のヴァポレットのサンタンジェロ停留所前)に住んでいたそうですから、活躍した劇場は全く目と鼻の先だった訳です。
サンタンジェロ停留所前のアンナの家(左)、右は同名の劇場サンタンジェロ停留所前、左はアンナが住んだと言われる建物、路地を挟んで右は旧サンタンジェロ劇場
このヴィヴァルディのお気に入りの愛弟子は、《赤毛司祭のアンナちゃん(Annina del Prete Rosso)》と愛称され、ヨーロッパ演奏旅行では、一人旅が困難だった彼のために、14年間も身の回りの世話で一緒に行動しました(他の歌手達も一緒にです)。ヴィヴァルディは聖職者が女性と同棲関係にあると見做され、非常に非難されます。1737年のフェッラーラ巡業では、堕落した聖職者として入市を拒否されました。

彼によって歌唱力が数段に上がったと言われる彼女のアパートに、彼が“度々”滞在したとする評伝もあるようですが、彼は1740年突然ヴェネツィアを発ち、1741年に独り貧窮の中で、ウィーンで亡くなっています(2008年7月15日のブログインテルプレティ・ヴェネツィアーニもご参照下さい)。一方彼女は、1747年サン・サムエーレ劇場での舞台がヴェネツィアでのラスト・ステージで、翌'48年ピアチェンツァの劇場に出演し、同年ピアチェンツァの伯爵と結婚したと伝えられています。

また1700年代にはT.アルビノーニ、A.カルダーラ、A.ハッセの作品の上演があり、1740年のG.B.ペルゴレージのオペラ・ブッファ『奥様女中』の上演を機に、B.ガルッピとC.ゴルドーニのコラボレーションが数多く見られたそうです。
ゴルドーニ傑作喜劇集ゴルドーニの喜劇としては1753年までに、『骨董屋の家族』『嘘つき』、『コーヒー店』(『ゴルドーニ傑作喜劇集』牧野文子訳、未来社、1984年6月8日発行にあり)、『宿屋の女主人』等が上演されました。

1780年新しく劇場支配人に就任したジャーコモ・カザノーヴァは、フランスから喜劇役者を呼び寄せます。

18世紀終わりには、ファルサやオペラ・ブッファの上演準備がなされる中、1797年には、'92年からヴェネツィアに来ていた前期ロマン派詩人ウーゴ・フォースコロの悲劇『ティエステ(Tieste)』が板に乗せられます。

最後の演し物は1803年のことだったそうです。それ以後建物は倉庫に転用され、数十年後には取り壊されてしまいました。現在大運河に顔を見せる建物、バロッチ館(19世紀建造)はその跡地に建った物でしょうか?

次回も更にリアルト方面に向かって、サン・ベネデット劇場です。
  1. 2008/12/27(土) 00:01:44|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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