サン・ベネデット劇場2009 / 01 / 03 ( Sat )
アルベロ小広場を通り抜け、アルベロ橋を渡って直進し、更にミキエール(Michier)橋を越すと、ペーザロ(Pesaro)通りからサン・ベネデット(S. Beneto)広場へ出ます。
広場の前のペーザロ館は、フォルトゥーニ美術館(スペイン画家マリアーノ・フォルトゥーニ・イ・マルサルの息子の画家・ファッション・デザイナー、マリアーノ・フォルトゥーニ・イ・マドラーソの)となっており、以前は素晴らしい中庭から外階段を上って二階の入口に到達しました。リアルト市場へ行く時は、この美しい中庭を覗くのが楽しみでした。現在は入口が変更され、中庭側のドアは閉ざされてしまったようです。 広場からロッスィーニ映画館裏の、劇場大通り(Salizada del Teatro)を直ぐに左折してサンタンドレーア(S. Andrea)通りを道なりに進むと、劇場橋(P. del Teatro)前に、ロッスィーニ映画館の入口が開けています。現在ヴェネツィアで稼働している映画館は、サンティ・アポーストリ教会脇を北上した所にあるジョルジョーネ映画館だけと思われ、一方この劇場近辺は人通りも稀で、今や廃墟の様相を呈しています(2007年11月17日のブログもご参照のほどを)。 この劇場はかつてサン・ベネデット(ヴェネツィア語は、サン・ベネート)劇場と呼ばれ、1755年有力貴族の一家グリマーニ家により建設されました(この一家は他にも豪華なサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ、サン・サムエーレ等の劇場も建造しています)。これまで建設された劇場の中では、舞台も最大で、設備も最上と言われ、ヨーロッパの中でも幕を持った最初の劇場だったそうですが、直ぐに経営がある団体「Societa`」に譲られてしまいます。 前掲書『イタリアのモーツァルト』によれば、モーツァルト父子は1771年2月11日の朝ヴェネツィアに到着し、その日このヴェネツィアで最良のサン・ベネデット劇場に、メタスタージオ台本、ジョヴァン・バッティスタ・ボルギのオペラ『シロエ』を見に行った、とあります。 1774年12月26日には火事で焼け落ちてしまいますが、再建され、パスクァーレ・アンフォッシの『オリンピーアデ』で再開場しました。 1776年バレエ『コリオラーノ』は、当時国家査問官のスパイをしていたジャーコモ・カザノーヴァの告発で、革命的思想を刺激するものとして、上演が禁止されます。'78年にはバレリーナ、マリーア・カンチャーニが記録的な大当たりを取ります。 1786年には、土地の所有者ヴェニエール家が劇場の経営者の団体「Societa`」を排除・追放し、排除された人達はそこから離れた場所に新しく劇場の建設をすることになりました。それが現在のフェニーチェ劇場となっていきます。 18世紀末には観客達は、サン・サムエーレ劇場派とサン・ベネデット劇場派に分かれ、熱い議論を闘わしました。 1810年ジョヴァンニ・ガッロが劇場を購入し、呼称をガッロ劇場と改名します。 1813年5月22日ジョアッキーノ・ロッスィーニの『アルジェのイタリア女』の初演が大成功を収めました。 1845年バレリーナ、マリーア・タッリォーニが『シルフィード』でデビューし、大喝采を受けます。 1854年5月6日ジュゼッペ・ヴェルディの『椿姫(トラヴィアータ)』の再演が成功裏の内に終わりました。彼は次のような手紙を書いているそうです。「ところで、ご存じのように、今サン・ベネデット劇場で上演している『トラヴィアータ』は、昨年フェニーチェ劇場で上演したものと全く変わりないものです。いずれにしても、音楽も歌詞も何一つ変更も追加も削除もありませんし、音楽的構想も変えていません。フェニーチェ劇場のために用意した全てが、ここサン・ベネデット劇場にそのまま全てあります。あの時は失敗でしたが、今度は大成功です」。 しかし劇場側の対応には変更があったようで、フェニーチェの時の小さな宣伝ポスターに比べて、サン・ベネデットの時の宣伝ポスターは格段に大きな物だったそうです。 1868年ロッスィーニの死亡ニュースを受けて、劇場経営者は彼のオペラで大成功を与えてくれた作曲家の名前を劇場名にすることにしました。 20世紀には映画館となりましたが、映画衰退とともに映画館でもなくなり、現在は廃墟寸前のようです。有効利用の道はないのでしょうか。 |
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1933年の映画『未完成交響曲』はヴィリ・フォルスト監督で、ウィーンの舞台俳優
ハンス・ヤーライとブダペストの舞台女優マルタ・エゲルトが演ペッシェクルード文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーこんばんは、 再度です。
古い映画の話になると、とたんに懐かしくなって・・!
ああ、やはり、そうですね。 ヴィエンナでした。
「未完成交響曲」と言うと、最後のshinkai文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーshinkaiさん、コメント有難うございます。
「シュニッツラー、黄昏、映画」で検索してみました。1934年『たそがれの維納
(ウィーン)』というオーストリア映画が、パウラペッシェクルード文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーこんにちは!
ああ、この部分は素敵ですねぇ!
カザノヴァの抑えた、でも隠し切れない弾む心を感じさせますね。 望郷の念、ですね。
シュニッツラーというと、[shinkaiSeminario Patriarcale(教皇庁セミナーリオ)september30さん、コメント有難うございました。
私も単なる物珍しさだけから大歓迎されたのではないと思います。イエズス会の布教
に応えて、挨拶に地球の裏側からローペッシェクルード