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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのチチズベーオ(3)

《Venezia Nascosta(隠れたヴェネツィア)》というブログに《I cicisbei veneziani, e l'amore a Venezia nel 700》というお話が、ヴェネツィアのチチズベーオについて語っていますので、更に紹介してみます。

「チチズベーイとかカヴァリエーリ・セルヴェンティはイタリア的現象で、外人達から酷く非難されたが、中でも仏人モンテスキューは、1728年イタリアを訪問、次のように書いた。《チチズベーオ達の事について私は、そこでは触れなかった。非常に滑稽で、馬鹿な国民が作り出したことである。将来に希望もない恋人達で、選ばれた貴夫人に対して、自由を犠牲にした犠牲者である。》

彼は高慢の高みで胡坐を掻いてチチズベーオの役割の意味を何一つ理解出来なかったし、1600~1700年代のヴェネツィアにも理解が及ばなかった人物である。この大思想家は奉仕騎士自体、貴夫人とその夫を利用出来る立場も、そのチャンスも、更にはゴルドーニが『骨董屋店』の中で、この様態を皮肉っていることさえ理解しなかった。
[モンテスキューのヴェネツィア滞在記については、2013.07.13日のブログモンテスキューで触れました。]

一人の女性をその外出の度に守護するために、カヴァリエーレとして生まれたチチズベーオは貴族階級の息子であった。しかし長男でない息子にとって遺産が全て長子にいくため、しかも社会参加の機会も所持金もないが故、将来の生計を確保することが出来る環境へ出入りしておくことが必要だったのである。この付添い人は家族の内、あるいは同じ財産程度の友人達の中から選ばれた。そしてその名前が結婚契約書に明記されることが善くあった。

彼の任務は朝から貴夫人に付き添うことで、朝化粧室に赴き、散歩や詩の朗読、音楽の演奏をする等、エスコートした。屢々、詩はアルカディアのイタリア文学から引かれ、ギリシア神話に則り、ペロポネーソス半島のアルカディアは牧羊神のパーンの土地であり、森の神の人気ない処女林のような家であり、森の精ドリュアースの、妖精ニンフ達の、自然の精霊達の庭園である。そこは屢々不滅の存在であるが故に、超自然なるものだけが住んでいた地上の楽園と言われた。
Casanova回想録カザノーヴァと想定画[左、『カザノーヴァ回想録』(伊語版)、右、Alessandro Longhi画のカザノーヴァと想定される肖像画(1774?)、サイトから借用。]  カザノーヴァは回想録の中で、ジャン・ヴィンチェンツォ・グラヴィーナとかフランチェスコ・ペトラルカとかピエートゥロ・メタスターズィオ(ピエートゥロ・トゥラパッスィのギリシア風の雅号)等の作家の文章を屢々引用し、教養ある、文学的な女性との情交を気晴らしに進めたと言っている。

食卓ではチチズベーオは貴夫人の脇に侍り、料理の肉を切り分けたり、夜には遊戯卓に近侍した。こうした貴夫人とチチズベーオの間には明らかに恋愛とかは存在しなかった。しかし貴夫人に対する慇懃な態度と男らしい配慮を示し続けることは、かつての騎士の古いやり方に従えば、貴夫人に身も心も投げ出した……その他、何もかも。
……
当然結婚というものは男女が色々に組み合わされた結果であり、貴夫人とチチズベーオが夫の暗黙の了解(implicito consenso)の下、彼らの間に恋愛関係を結んだということ、また他の関係を作るという事も自由だったということを排除すべきではないが、いずれにしても結婚の完全性として、取り分け家族の財産は強固に守られたのである。

チチズベーオ達にとってより適切な役柄とは僧侶であった(ジャーコモ・カザノーヴァは若くして神父になった)。そしてある人は修道士の義務の退屈さを軽減しようと、修道女に興味を持ったのである。ベネディクト修道院では貴族の娘は信仰には従っていたが、神父や聖職者との関係を発展させもした。事実、ある神父が残したこうした内容の修道院の記述がある。

ベネディクト会修道院について若干触れるとすれば、言って置かねばならない事がある。《フランス風に白で着飾り、本当に愛らしい装いをして、包み袋風の絹のコルセット(busto)、面前を覆う小さなヴェール、その下から巻き毛が覗き、見事に似合っている。胸部は半分も剥き出し(伊語scollato)、全体として尼僧というよりは妖精ニンフの装いである。》

ジャーコモ・カザノーヴァの事が思い出されるのはいつもの事であるが、ムラーノ修道院の尼僧、有名なM.M.との関係は有名である。スータンという修道服を着るつもりもなかった人々の淋しい運命、ヴェネツィアの通俗性、この町にしかない独特なこの状況、そして多分偽善の犠牲者であったのだが、生きた人々が住む生きた町……パラッツォやフェルツェが用意されたゴンドラの中で愛を貪り、生きる喜びを推し進めていった、しかしそれは残念な事にデカダンスの始まりであった。 」
felze[felze/felse(フェルツェ/フェlルセ=伊語)は、ゴンドラ等の上に用意された屋根のある客室、テント小屋のような物だそうですが、ヴェネツィア語ではfelce(フェルチェ)でしょうか?]
  1. 2018/10/18(木) 00:17:27|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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